3.4 多摩川と近現代文学
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3.4 多摩川と近現代文学

 今度は時代を下げて近代そして現代文学の面から多摩川を眺めてみることにしよう.

 水源に近い小河内(奥多摩町)とその周辺を扱った石川達三の小説に「日蔭の村」がある.1937年(昭和12)の作品である.この小説は冒頭に

  東京から多摩川の溪流を遠く遡って,御嶽,氷川を過ぎ,鳩ノ巣,数馬,水根峡の奇勝を過ぎると,たたなはる山また山の谷あひの部落が溪流の岸の断崖の上に点々と危ふげな小舎をつらねている.

と多摩川の奥,いわゆる奥多摩の山村の情景を記している.

 この小説は日照時間の短い山峡の村の中で起こった,小河内ダム建設をめぐる村人の動揺と葛藤を描いており,多摩川上流を舞台とした社会小説といわれている.

 「日蔭の村」には小河内の温泉鶴ノ湯が登場するが,小河内の温泉神社(奥多摩町)には,徳富蘇峰の詩「登登極水源,隔谷幾村村,崖峻泉鳴筧,岳高雲八軒」を刻んだ碑(1935年建立)がある.

 上流を舞台とした小説にもう1つ「大菩薩峠」がある.中里介山が執筆したこの著作は空前の長篇小説といわれ,しかも未完である.多摩川の水源である大菩薩峠を題名としたこの小説は,主人公の机竜之助が御岳山上(青梅市)で剣術試合をするところがその発端となっている.

 この中里介山の文学碑が御岳山上に立てられているが,もう1つ青梅市裏宿には「大菩薩峠」に登場する盗賊裏宿七兵衛の碑も立てられている.

 この「大菩薩峠」を書いた中里介山は青梅より少し下流の羽村の出身である.明治18年(1885)羽村で水車を利用して精米業を営んでいた中里家の二男として生れた介山(本名彌之助)は,8歳のとき父母と共に横須賀(神奈川県)に移るが,のち再び羽村に戻り,16歳(1900年)のとき母校西多摩小学校の代用教員となっている.1903年(明治36)19歳のとき上京,「大菩薩峠」は1913年(大正2)に発表し,1941年(昭和16)までの28年間書き続けている.羽村の環境を愛した中里介山は,自己の周辺の出来事を題材にした「百姓弥之助の話」をも書いている.

 多摩川を題材とした文学作品の1つとして取り上げられるものに,アララギ派の俳人高浜虚子の編さんした「武蔵野探勝」がある.虚子が同人や弟子の句作指導の場として,毎月一回一日の吟行の会を1930年(昭和5)から開催し,1939年(昭和14)までの9年間に100カ所を回ったが,このとき作られた俳句と文章を集めたものがこの「武蔵野探勝」である.虚子はこの書の序文で「ホトトギスの同人其他の人々が,一日の吟行をして得たところの俳句を題材として,それを文章に綴って「ホトトギス」誌上に発表したものである」と述べている.

 第1回は「欅並木」の題で高浜虚子がみずから筆を執り,府中大国魂神社の馬場の欅並木の探勝をまとめているが,特に多摩川にかかわるものは第2回の水原秋桜子執筆の「多摩の横山」以下七篇である.

 秋桜子の「多摩の横山」は1930年(昭和5)9月30日の吟行をまとめたもので,「立川駅に遠からぬ多摩川の岸辺に,「丸芝」という鮎漁の宿がある」.という文章を冒頭にして,「京王電車が仙川,金子あたりにかゝると,左の車窓に多摩川の磧をへだてて,低い丘のはじまっているのが見える」として多摩丘陵からの眺望,丘陵の中の光景を主に,まとめている.

 ついで第19回の佐藤漾人の砧村(1932年2月7日),第20回の鈴木花蓑の関戸村(1932 3月6日),第27回の三宅清三郎の横山秋曇(1932年10月2日),第32回の松本たかしの「六郷堤」(1933年3月5日),第91回の富安風生の西郊春色(1938年3月6日),第92回の高浜年尾の深大寺(1938年4月3日)が多摩川にかかわるものである.

 多摩川に近い二子(川崎市高津区)は大山街道の宿場町であったが,この町の医家大貫家に生れた岡本かの子は,明星派の歌人として,また自然主義の作家として,数々の作品を残している.その中で「生々流転」は多摩川を素材に,生家を描き,彼女の周辺の人たちの姿を懐古している.多摩川を中心とした地域文学の名品である.

 二子の隣,溝口には国木田独歩が訪れている.1897年(明治30)独歩は溝口の旅人宿亀屋に一泊しており,

  多摩川の二子の渡をわたって少しばかり行くと,溝口といふ宿場がある.其中程に亀屋といふ旅人宿[はたごや]がある.

とその著「忘れ得ぬ人々」の冒頭に記して,三月の始めの溝口の物淋しい情景を描写している.

 亀屋は亀屋会館という料亭として現存しており,宅地内に島崎藤村が碑文を記した国木田独歩追慕碑が建てられている.

 多摩川も中流になると,その北側の武蔵野を背景とする文学は多くなる.国木田独歩の「武蔵野」はその中でも代表的な作品である.大岡昇平の「武蔵野夫人」も,独歩の自然を凝視す姿勢と同じ立場で筆を進め,この自然を背景に,新しい時代の人間像を描いている.上林暁も武蔵野を書いている作家の一人で,妻の病院生活を題材とした「聖ヨハネ病院にて」(1946年)を始め,「野に出て」(1940年)や「草深野」などがある.「聖ヨハネ院にて」は小金井市にある聖ヨハネ会桜町病院がその舞台となっている.上林暁の随筆には多摩川を描いたものが見られる.「花の精」は是政河原での月見草の群生風景を描いており,「麦秋」では高幡不動や百草園の記述がある.

 武蔵野に関する随筆集は,1920年(大正9)に「武蔵野の艸と人」が太田三郎の執筆によって刊行されており,1942年(昭和17)には松村英一監修で,「武蔵野随筆」が刊行されている.そして翌1943年(昭和18)には礒萍水が著わした「武蔵野風物志」が刊行されている.「武蔵野随筆」に集録された随筆の中でとくに多摩川について触れているのは,柳田國男の「野中の清水」,土屋文明の「萬葉集武蔵野國歌・和泉多摩川歌碑のこと」,水原秋桜子の「武蔵野を行く」,以上の3篇である.



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