| 前のページに戻る | 次のページを見る | 目次に戻る | 表紙に戻る |
大都市とその周辺地域における鉄道網の発達は,まず都市化との関連でみていかねばならない.多摩川の流域を含む東京西郊の鉄道網は,この地域が「むらさき匂いし武蔵野野辺」であった農村時代に始まり,石灰石や砂利などの資源開発とその輸送,あるいは住宅化・工業化・観光化などさまざまの地域開発の過程で,建設と改良が進められてきたものであった.
そして,さまざまの動機で造られてきた鉄道網が巨大都市東京の都市化の波のなかに包み込まれ,通勤輸送を主たる機能とする鉄道網に再編成されてゆく.それは,これらの鉄道網が通勤輸送に最も適した形態である「高速電車」(rapid transit)に変化していく過程でもあった.
高速電車とは他の交通機関と共用しない専用路線上を走り,高出力の電動機と総括制御方式を採用して輸送単位の大きな(複数の車両を連結した)列車を短い間隔でひんぱんに運転(フリークエントサービス)できるような鉄道である.高速電車の発達を指標とすると,東京西郊の鉄道網の発達は次の四つの時代に区分することができる.
第1期−蒸気鉄道の時代(明治5〜30年ごろ)
この時期は,東京のビルトアップエリアの外縁部にターミナル駅を設けた蒸気鉄道が,東京から放射状に路線を延ばした時代である.フリークエントサービスの能力は低く,路線網の密度も低い.1872年(明治5)に官設鉄道新橋(現汐留)−横浜(現桜木町)が,1889年(明治22)には甲武鉄道新宿−八王子間がそれぞれ開業している.いずれも多摩川に架橋し,多摩川を渡る初期の橋梁となったが,洋式工法を用いた鉄製橋であった.
このうち六郷川の架橋については,多摩川架橋史の重要な事件であるため,その概要に触れてみることとする.
官設鉄道の六郷川橋は当初は木橋として設計され,1870年(明治3)10月起工,約1年の年月を費して翌年10月に完成した.本橋と避溢橋を合わせた延長343間(623.6m),本橋部63間はひのき材を用いた横桁7連を架設した(*1)日本在来の工法に近い橋梁で,両端と本橋・避溢橋間と橋台は石材が用いられたが,橋脚は木製であった.この木橋は江戸時代中期以降,多摩川において青梅より下流部で架けられた最初の永久橋であった.しかし,この木橋は1877年(明治10),石とコンクリートまたは鋳鉄製円筒を基礎とした煉瓦積みの橋脚,錬鉄製の桁を用い,6連のワーレントラスによる鉄橋に架け替えられた(*2).多摩川に架けられた最初の鉄橋であった.
当初は川幅のおよそ半分を築堤とする設計であったが,洪水時の被害を恐れた住民の請願をいれて,川幅全体を橋梁とする設計に改められている.設計者は鉄道省の雇建築師シャーヴィントン(Thomas R.Shervinton)と雇建築助役のシャン(Theodore Shann)であった.
この鉄橋は1912年(明治45)に撤去され,1915年(大正4)に東海道線第2酒匂川橋梁(現在は御殿場線の区間にあたる)に一部改造のうえ再用されて,1965年(昭和40)まで使われた.現在はそのうちの1連が「旧六郷川鉄橋」として鉄道記念物に指定され,中央鉄道学園三島分教所に保存されている(*3).
1885年(明治18)までに,いわゆる松方財政によるインフレ収束策が功を奏し,日本の経済が安定し,軌道に乗るという社会経済的背景のもとに,輸送需要が大きいと予想されるルートを選定して,私鉄敷設の免許を出願するものが続出した.これを第一次私鉄熱と呼ぶ.新宿−八王子間を開業した甲武鉄道はその1つであった.
続いて,日清戦争(明治27〜28)ごろから3〜4年にわたって第二次私鉄熱が起こる.立川で甲武鉄道から分岐し,青梅,日向和田に至る路線を1894年(明治27)に開業した青梅鉄道はその一つであった.
青梅鉄道は当初は軌間の狭い(762mm)軽便規格で開業したが,豊富な沿線の石灰石の採掘と輸送を強化するため,浅野総一郎などが大株主となり,明治31年(1898)に軌間を一般鉄道並みの1,067mmに広げている.
第2期−軽便鉄道と電車の登場(明治30年ごろ〜大正10年ごろ)
低速の路面電車がビルトアップエリア内の市街鉄道や郊外に延びる街道沿いに郊外電車を建設する時期である.また,第1期に建設された蒸気鉄道に加えて,よりローカル的な機能の都市間連絡鉄道の建設が進められた.高速電車も少数ながら登場する.
1899年(明治32)1月,川崎−川崎大師間に開業した大師電気鉄道は,東京周辺で最初に開業した鉄道である.後に川崎から東海道に沿って南北に線路を延長し,明治38年(1905)までに品川−神奈川間を開通させ,官設東海道線との間に激しい競争を展開することになる.
続いて,厚木街道上を走る玉川電気鉄道(渋谷−玉川間,明治40年開業),甲州街道沿いの京王電気軌道(新宿−府中間,大正2〜5年開業)が開業しているが,多摩川をまだ越えるには至っていない.
玉川,京王の両電車は旅客輸送とともに,多摩川の砂利採取とその輸送に当たったことは注目せねばならない.東京における砂利の需要は,このころから少しずつ増大し,当初は鉄道のバラストが主な用途であったが,コンクリート工法の普及とともに次第に一般の土木・建築に用いられるようになる.
東京付近で砂利輸送を大きな収入源とした最初の鉄道は玉川電気鉄道であるが,本格的な砂利輸送のための鉄道は,1910年(明治43),専用鉄道として国分寺−下河原に開業した東京砂利鉄道である.また,1917〜22年(大正6〜11)に武蔵境−是政間に開業した多摩鉄道も砂利のための鉄道であった.このような砂利採取と輸送のための鉄道は,次の第3期には関東大震災後の東京・横浜都心部の復旧需要に応ずるために急増することになる.
第3期−高速電車網への再編成の時代(大正10年ごろ〜昭和30年ごろ)
大正末期になると大都市への人口集中のテンポが速くなり,職場と住宅とが混在していた都心部では両者の分離が進んで,住宅は郊外に向かって急速な拡大を示すようになる.関東大震災はこの働きを大いに促進した.特に高学歴のホワイトカラー層が東京西郊の住宅化の主役となった.
郊外の住宅地は,都心部の職場と緊密に結ばれることによって初めて存在しうる.したがって,多数の通勤客をできるだけ高速で,ひんばんに運転できる交通機関,すなわち高速電車が要求されることになる.
住宅化が特に急速に進んだのは,西南郊の地域であり,そのフロンティアは多摩川下流の左岸に及んできた.特に住宅地開発を積極的に鉄道経営のなかに取り込んだのは,目黒蒲田電鉄(目黒−蒲田及び大井町−二子玉川間,大正12〜昭和4年開業)と東京横浜電鉄(渋谷−桜木町間,大正15〜昭和7年開業)であり,池上電気鉄道(五反田−蒲田間,大正11〜昭和30年開業)もやや遅れて不動産事業を鉄道経営に取り入れている.この地域で最も代表的な住宅地開発は,目黒蒲田電鉄を中心として行われた田園調布であった.
第一次世界大戦後,電力資本が余剰電力の販路を鉄道に求め,鉄道電化や電気鉄道建設を進めたことも,高速電車普及の原動力の1つである.昭和2年(1927)に新宿−小田原間をいっきに開通させた小田原急行鉄道はその一例である.
さらに関東大震災の復興を兼ねて,東京や横浜の都心部の再開発が進み,また京浜工業地域の発展に伴って,砂利や石灰石の輸送は鉄道の重要な任務となった.
青梅鉄道の電化(立川−御岳間,大正12年),五日市鉄道の開業(立川−武蔵岩井間,大正14〜昭和5年),南武鉄道の開業(川崎−立川及び尻手−浜川崎間,昭和2〜6年),鶴見臨港鉄道の開業(鶴見−扇町間その他,大正15〜昭和15年)は,いずれも浅野総一郎系の資本をバックとして行われたもので,鶴見埋立と呼ばれた一大工業地区の埋立造成と密接に関係している.
この4鉄道は昭和18〜19年(1943〜1944)にその重要性のために国有化され,国鉄の青梅線,五日市線,南武線,鶴見線となった.青梅線は同じく石灰石採掘場を多摩川の上流に求めて御岳−氷川(現奥多摩)間を開業した奥多摩電気鉄道の路線を国有化して延長された.
また,多くの鉄道が多摩川の河原まで砂利取り用の支線を建設して,砂利の需要に応じていた.
この外,大学や専門学校・高等学校などの高等教育機関が武蔵野や多摩丘陵上に広いキャンパスを求めて移動してきた.この場合も高速電車の開通は不可欠の条件であった.
さらに東京市民のレクリエーションの場としてこの地域の開発が進み,鉄道企業によって近郊遊園地の開設や登山・ハイキング地の宣伝が盛んに行われた.そのなかで,多摩渓谷の観光地化も徐々に進められた.高尾山や御岳山へのケーブルカーの開通(昭和2年及び9年)はその1つの現れといえよう.
第4期−大都市圏交通網確立の時代(昭和30年ごろ以降)
日本は昭和30年(1955)ごろを境として,高度経済成長期に入る.東京西郊の住宅化もこの時期に至って多摩川を越えて,さらに西に進むようになった.鉄道は増大する通勤人口を迅速に輸送する責任がますます大きくなり,車両の大型化(全長20m車の導入)と編成の長大化が進んだ.
かつては砂利や石灰石の輸送に活躍した青梅線,五日市線,南武線の沿線も住宅化が進み,これらの鉄道も通勤鉄道の役割が大きなものとなっていった.ちなみに,青梅線の立川−東青梅間と南武線全線は複線化が完成し,五日市線は電化された.
また,新しい大規模宅地の開発に伴って,多摩丘陵や高尾山方面に新線の建設が行われた.東京急行電鉄田園都市線,小田急電鉄多摩線,京王帝都電鉄相模原線,同高尾線などがそれに当たる.
一方,レジャーブームのなかで,各鉄道の観光客輸送の重要性が高まり,青梅線,五日市線はこの意味で重要である.同時に奥多摩山地における石灰石輸送も依然として盛んに行われている.
この他,東京付近の貨物鉄道網の抜本的な改良を図るため,東京外環状線の建設が進み,その一部として,新鶴見操車場から西国分寺,南浦和,新松戸を経て西船橋に至る武蔵野線が開業した.この線は従来は山手貨物線を用いていた東京をバイパスする貨物列車を運転する路線であるが,有効な活躍が期待されたにもかかわらず,鉄道貨物のかつてない落ち込みに再会し,十分な機能を発揮できないでいるのは皮肉な現象といえよう.
*2『日本国有鉄道百年史』第2巻(1970),p.62〜63,145〜147,同書には,『工部省記録』巻1より引用された「六郷川鉄橋架設之儀伺」(明8.3.17付,「六郷鉄道橋架増之義ニ付伺」(明9.2.4付)の文書が収録されている.
*3「旧六郷川鉄橋」の現状と考察については,中川浩一:『鉄道記念物の旅−臨地調査の記録−』(クオリ,1982),に詳しい.