3.2 多摩川をめぐる産業と鉄道
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3.2.2 石灰石とセメントの輸送に当たった鉄道

 セメントの需要は,鉄筋コンクリート建築物の普及とともに大正後期より急激に増加する.このため,鉄道輸送貨物のうえでもセメント及びその主たる原料である石灰石の輸送も急増する.このことは前項で述べた砂利の輸送需要増と同一の原因によるものであり,以後,日本の鉄道貨物輸送のうえで重要な品目に位置するようになる.そして砂利の輸送を目的とした,いわゆる砂利鉄道という概念が形成されたのと同様に,セメントあるいは石灰石,もしくはその両者の輸送を主力とする,セメント・石灰石鉄道も成立することとなった.

 多摩川やその支流秋川の上流域には豊富な石灰石の埋蔵が知られており,日本に近代的なセメント工業が成立するとともに,石灰石の輸送は重要な鉄道輸送貨物となる可能性を生じたのであった.

 日本において,初めて石灰石の輸送を主たる目的として造られた鉄道は,おそらく安蘇馬車鉄道である.この鉄道は栃木県安蘇郡葛生付近で採掘された石灰石を輸送するために造られたものであった.葛生の石灰石は主として東京の深川セメント製造所(明治6年官営として発足,同16年浅野総一郎に払下げ)に送られ,当初その輸送は馬車または馬背にによって渡良瀬川の支流越名(こいな)川に出され,ここから川舟で深川に運ばれた.明治20年(1887),葛生と越名川岸との間に木道馬車が敷設され,翌年に木道を鉄道に改めた.これが安蘇馬車鉄道であり,1897年(明治27)蒸気鉄道となって,社名も佐野鉄道と改めている.後に佐野鉄道は東武鉄道に合併され,現在も東武鉄道佐野線として石灰石の輸送が多い.

 多摩川流域における石灰石の採掘は,1895年(明治28),青梅鉄道の兼営事業として日向和田(ひなたわだ)村宮ノ平で行われたのが最初である.青梅鉄道は,多摩川が関東山地の渓谷から武蔵野台地に出る地点に位置する谷口集落青梅を甲武鉄道沿線の立川と結ぶ鉄道で,計画当初から石灰石は重要な輸送貨物と考えられていた.

 青梅鉄道は1891年(明治24)5月,青梅・羽村・福生などの有力地主を発起人の主力として,立川−日向和田間の蒸気鉄道として出願された.軌間は2フィート6インチ(762mm)で,軌間の狭い軽便鉄道としたのは,資金の不足に主たる原因があったのであろう.発起人の一人として,深川セメント工場を政府から払い下げを受けた浅野総一郎が名を連ねており,すでに石灰石の供給源として日向和田の砿床に彼の目が注がれていたことがわかる.事実,彼は会社成立後,筆頭株主となり,青梅鉄道は浅野系鉄道としての歴史をたどることになるのである.政府は青梅鉄道の出願に対して,将来,政府において必要と認定する場合には,3フィート6インチ(1,067mm)軌間への改築を拒否してはならないという条件付きで,明治24年9月,これに仮免許を与え,翌25年6月に本免許を下付した.

 鉄道建設工事の着工は明治27年であり,立川−青梅間を明治27年11月19日,青梅−日向和田間を同28年12月28日にそれぞれ開業した.青梅−日向和田間は当初貨物営業のみを行い,1898年(明治31)3月10日に至ってようやく旅客営業を開始している.

 青梅鉄道は,当初は甲武鉄道(飯田町−八王子間,現国鉄中央本線の一部)の1支線の感があり,重役にも共通する人物がいて,1896年(明治29)4月からは甲武鉄道に経営を委託したが,この委託は約1年半にとどまり,翌30年11月からは再び自営の独立した鉄道となった.また,前述のように,明治28年より石灰石の採掘販売を兼業して,浅野セメント,鈴木セメント,御料局,王子製薬所などと供給契約を結んでいた.しかし,石灰石や木材の輸送が多かったとはいえ,明治34年度及び44年度における営業収入中の貨物収入比は,それぞれ49.9%,57.3%にとどまっていた.

 日露戦争後,日本のセメントの需要は次第に上昇し,これに伴って各地の石灰石採掘場の開発やセメント工場の新設が進み,石灰石輸送も増加した.特に第一次世界大戦後の増加は急速であった.

 青梅鉄道は2フィート6インチ軌間の鉄道として運転されてきたが,輸送力増強のため,国鉄線と共通する3フィート6インチ軌間への改築を計画して,1907年(明治40)2月18日に改軌営業の運びとなった.さらに1914年(大正3)11月,日向和田−二俣尾間の免許を得て,1920年(大正9)1月1日にこの区間を開業した.これは浅野セメントが同年に二俣尾駅北方の雷電山で新たな石灰石採掘場を開いたためであった.

 1923年(大正12)4月,旅客列車の輸送能力とフリークエンシーの向上を図って全線の電化を完成した.この時点ではまず旅客列車のみが電車化され,貨物列車は蒸気運転のまま残されたが,1926年(大正15)に至って貨物列車も電気機関車牽引となった.これによって蒸気機関車は追放され,全列車は完全に電気運転に統一されて,社名も青梅電気鉄道に変更された(昭和4年5月3日付).

 1927年(昭和2)6月には免許を得て,御嶽までの延長を進め,昭和4年(1929)9月1日,二俣尾−御嶽間を開業させているが,これは御嶽神社参詣客の便を図ったものであった.このころから,青梅電気鉄道は石灰石輸送とともに,観光輸送の比重の高い鉄道に変化していき,全体の営業収入に占める貨物収入比は,大正5年度(1916)55.2%,大正10年度(1921)には72.4%に達していたものが,昭和6年度(1931)には38.4%に落ちてしまった.さらに1934年(昭和9)には国電が青梅電気鉄道に乗り入れて,新宿−御嶽間の直通運転を行うなど,観光輸送にも積極的な姿勢を示した.

 一方,多摩川の支流秋川流域でも鉄道の建設計画が進められた.1921年(大正10)7月に拝島−武蔵岩井間を免許された五日市鉄道(蒸気動力,1,067mm軌間)である.

 五日市町も秋川渓谷の谷口集落であるが,鉄道建設が実現した直接の動機は,浅野セメントが大久野(勝峯山(かつぼやま))に石灰石採掘場を開いたことで(大正15年2月),さらに同地にセメント製造の西多摩工場が建設された(昭和2年1月決定,4年5月操業開始).元来は地域社会独自の計画であったが,会社創立直後に浅野系の資本が入り,昭和4年までに総株数のほぼ半分を浅野セメント及びその役員で占めるに至った.開業は次のように行われた.

 拝島−武蔵五日市間   1925年(大正14)4月21日

 武蔵五日市−武蔵岩井間 1925年(大正14)9月20日

 立川−拝島間      1930年(昭和5)7月13日(免許大正13年2月)

 最後に開業した立川−拝島間は,青梅電気鉄道の路線の南方を走って,国鉄中央本線や南武鉄道に直接接続するための路線で,これにより,大久野の採掘場と工場から川崎・鶴見の臨海工業地帯へ石灰石を,また東京方面にセメントを直通できるようになった.

 このようにして,多摩川及び秋川上流域で産出される石灰石・セメントは,青梅電気鉄道と五日市鉄道によって輸送され,東京付近における重要な貨物輸送の1つとみなされるようになった.

 青梅鉄道や五日市鉄道で積み出される石灰石を,多摩川河口の「浅野埋立」に立地する浅野セメント川崎工場に直送すべく計画されたのが南武鉄道である.南武鉄道はもともとは多摩川の砂利を埋立地に運ぶ目的で発起されたもので,多摩川砂利鉄道の名称で川崎−稲城間の免許を1920年(大正9)1月29日に得ている.同年3月に社名を南武鉄道と改め,会社を創立した.最初は沿線の地主が株主の主力であったが,やがて浅野セメントを主力とする浅野系資本が導入され,1924年(大正13)2月,稲城−立川間及び府中−国分寺間について,1627年(昭和2)5月に尻手−浜川崎間について免許を得た.これは奥多摩から川崎の埋立地まで,浅野系鉄道で石灰石を直走させる意図をもっていたことを示している.計画当初は蒸気動力を予定していたが,1926年(大正15)10月認可で電気動力に切り替えられ,前項の別表に示すように,1927〜1931年(昭和2〜6)に電気鉄道として開業した.

 南武鉄道は砂利鉄道として発足し,2本の砂利採取用貨物線を支線として開業していたが,1930年(昭和5)までに立川−浜川崎間が全通すると,石灰石輸送の機能の比重が大きくなったと考えられる.

 しかし,多摩川流域の石灰石採掘場は次第に上流に及んだ.浅野セメントは1927年(昭和2),将来の石灰石需要を見越して日原(にっぱら)付近の山林を買収しており,日原採掘場開発と石灰石輸送のため,浅野セメント,日本鋼管,浅野造船製鉄の浅野系3社の共同出資による奥多摩電気鉄道が計画された.そして青梅(電気)鉄道の終点の御嶽から氷川に至る鉄道の免許が,1928年(昭和3)11月,奥多摩電気鉄道に下付された.

 青梅鉄道を延長する方法をとらなかったのは,山間の路線で多額の建設費が予想され,青梅鉄道独力では不可能であり,低収益の鉄道を分離した形態で発足したからである.しかし,この計画は不況のためか,その後棚ざらしにされ,1937年(昭和12)6月に至って,奥多摩電気鉄道はようやく会社設立の運びとなったが,本格的な建設工事が始められたのは1941年(昭和16)であった.また,東京都も水道拡張計画によって小河内貯水池の建設を決定し,その資材輸送のためにも鉄道が必要と考えられた.

 一方,五日市鉄道は連絡運輸の円滑化を図るため,1940年(昭和15)9月1日付で,同じ浅野セメント系の南武鉄道に買収された.

 第二次世界大戦の激化とともに,浅野系ともいうべき青梅電気鉄道,奥多摩電気鉄道,及び南武鉄道の3社は,石灰石・セメント輸送の重要性から国有化されることになり,青梅電気鉄道と南武鉄道(旧五日市鉄道の路線を含む)は1944年(昭和19)4月1日に,奥多摩電気鉄道は御嶽−氷川(現奥多摩)間の開業と同時の同年7月1日付で国鉄に編入された.こうして,旧青梅電気鉄道,奥多摩電気鉄道の路線を合わせて,青梅線,旧五日市鉄道の路線を五日市線としたが,両線の重複する立川−拝島間については,昭和19年10月11日付で五日市線のほうを廃止してしまった.

 第2次世界大戦後,日原と大久野の石灰石輸送は続き,特に奥多摩工業(昭和19年12月31日付で奥多摩電気鉄道を改称)の採掘する日原の石灰石はベルトコンベアと鋼素鉄道によって氷川(昭和46年2月1日,奥多摩と改称)駅付近の同社選鉱場に運ばれ,ここから青梅線,南武線経由で川崎と高麗川の日本セメント(旧浅野セメント)工場に送られている.五日市線の石灰石・セメント輸送については,1971年(昭和46)2月1日,武蔵五日市−武蔵岩井間の旅客営業が廃止され,武蔵五日市−大久野間の貨物輸送は残されたが,後に西多摩工場の製品輸送がトラック輸送に転換するに伴って,五日市線全線の貨物輸送が廃止された.

 大戦後の青梅線,五日市線は,沿線地域の住宅地化,奥多摩や秋川上流域への観光地としての繁栄によって,通勤鉄道・観光鉄道の性格が強くなっている.1961年(昭和36)4月17日に実施された,五日市線の電化,1961〜1962年(昭和36〜37)に行われた青梅線拝島−東青梅間の複線化は,このためのフリークエントサービス向上のためであったといえよう.


*各企業については次の資料・文献による.

 青梅(電気)鉄道…………『青梅鉄道三十年史』(青梅鉄道,1924),『鉄道省文書』(青梅電気鉄道)

 五日市鉄道………………『鉄道省文書』(五日市鉄道)

 南武鉄道…………………『鉄道省文書』(南武鉄道)

 奥多摩電気鉄道…………『創立二十周年記念写真帖』(奥多摩工業,1957),『創立40周年記念写真帖』(奥多摩工業,1977)

 日本(浅野)セメント………『七十年史・本編』(日本セメント,1955)



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