3.2 多摩川をめぐる産業と鉄道
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3.2.3 臨海工業地域の輸送に当たる鉄道

 多摩川河口付近における大規模な工業地域の造成事業は,浅野総一郎が1912年(明治45)に組織した鶴見埋立組合(後に東京湾埋立会社となる)によって進められ,1931年(昭和6)までに総面積578haに及ぶ広大な埋立地が完成した.そこには日本鋼管,浅野造船所(現在は日本鋼管に合併),浅野セメント(現在の日本セメント)など浅野系の企業を中心として,石油・金属・機械・ガラス・化学などの諸企業が次々と進出した.

 工業用地の造成と同時に,浅野総一郎は埋立地を縦断して国鉄線と結びつく鉄道の計画を進めた.これが鶴見臨港鉄道である.

 鶴見臨港鉄道は,浅野総一郎のリーダーシップのもとに,東京湾埋立会社及び埋立地に進出した企業の出資によって成立した.この埋立地に最初に建設された鉄道は,国鉄東海道本線支線として大正7年(1918)5月1日に開業した川崎−浜川崎間の貨物線であったが,鶴見臨港鉄道はこの浜川崎駅を起点として,浜川崎−弁天橋間及び支線2本(大川支線と石油支線)を1924年(大正13)4月に免許され,さらに弁天橋−鶴見間の免許を翌年11月に得ている.会社の創立は大正13年7月であった.こうして,同鉄道は埋立地に立地する各工場の専用鉄道と接続する路線を次のように開業した.なお,浜川崎−扇町間の免許は若干遅れて,昭和2年7月に取得している.

  浜川崎−弁天橋間               大正15年3月10日

  大川支線分岐点(現白石)−大川間(大川支線)   同  上

  石油支線分岐点(現安善)−石油間(石油支線) 大正15年4月10日

  浜川崎−扇町間                昭和3年8月18日

  弁天橋−(仮)鶴見間             昭和5年10月28日

  浅野−新芝浦間                昭和7年6月19日

  (仮)鶴見−鶴見間              昭和9年12月23日

  弁天橋−鶴見川口間              昭和10年12月1日

  新芝浦−海芝浦間〔芝浦製作所専用線を買収〕  昭和15年11月1日

 埋立地内の地名・駅名には,埋立組合幹部の氏名や進出した企業にちなむ名称が選ばれている.例えば,

  白石=白石元治郎(日本鋼管初代社長,浅野総一郎の女婿)

  大川=大川平三郎(日本鋼管2代社長,製紙業界のリーダーとしても著名)

  安善=安田善次郎(安田銀行頭取,日本石油取締役)

  若尾=若尾璋八(東京電灯社長)

  浅野=浅野造船所の所在地

  昭和=昭和電工の所在地

  海芝浦・新芝浦=芝浦製作所の所在地

 鶴見臨港鉄道は本来貨物輸送のみを行う予定で,蒸気を動力として開業した.しかし,各工場の従業員輸送や取引関係者の交通の便を考慮して旅客営業も計画し,1927年(昭和2)10月にその認可を得て,さらに同4年6月には電化工事も認可された.これにより,1930年(昭和5)10月28日,すなわち,弁天橋−(仮)鶴見間の開通と同時に,(仮)鶴見−扇町間の電車運転を開始したのであった.大川支線と石油支線も同時に電車化されたと思われるが,つまびらかではない.また,その後の開業はすべて電化線として始められているが,弁天橋−鶴見川口間は旅客営業を行わず,石油支線も1935〜1940年(昭和10〜15)の間に旅客営業を廃止して貨物線となっている.

 しかし,埋立地付近における旅客輸送を最初に計画したのは鶴見臨港鉄道ではなく,京浜電気鉄道の子会社であった海岸電気軌道であった.当時,品川と神奈川を結ぶインターバンであった京浜電気鉄道は,1910年(明治43)に早くも大森−鶴見間で,多摩川デルタの先端を迂回する線の特許を出願しており,この計画は却下されて実現しなかったものの,デルタの水田地帯に工場が進出し,鶴見埋立が進むのに応じて,再びデルタ迂回線の計画が再燃した.海岸電気軌道はその株式の大部分を京浜電気鉄道が引き受け,同社の鶴見総持寺駅から分岐し,デルタ先端の海岸線沿いに川崎大師駅に至る路線を出願した.この計画は1919年(大正8)12月に特許されて,次のように開業した.当時の京浜電気軌道と同じく軌間4フィート6インチ(1,372mm)の電気軌道であった.

 総持寺−富士電機前間      大正14年6月5日

 富士電機前−浅野セメント前間  大正14年10月16日

 浅野セメント前−川崎大師間   大正14年8月15日

 これらの経由地の停留場名をみると,海岸電気軌道の性格が察せられる.このほか,潮田−八丁畷間の特許を1925年(大正14)12月に得ているが,未完に終わっている.

 海岸電気軌道は営業的には失敗であったとされ,かつ鶴見臨港鉄道が旅客営業を計画するに至って,状況はさらに厳しいものが予想された.そこで両社は合議のうえ,鶴見臨港鉄道が海岸電気軌道を合併し(昭和4年11月30日付実施),その営業を引き継いだ.ところが,1936年(昭和11),工業地域の道路輸送改善のため,通称「産業道路」の建設が決定し,その軌道敷は新道路の一部とされることとなった.これを機に鶴見臨港鉄道は軌道線を廃止してバスに切り替えることを決定し,ついに1937年(昭和12)11月30日限りで,その運転は廃止された.

 鶴見埋立地の北東海面では,神奈川県と川崎市が協力して埋立地の造成を進めた.軍需工業の発展期を迎えて,この地区には巨大な臨海工業地域が形成され,原材料や製品の輸送,従業員の通勤輸送に対する交通需要は急増した.そして鶴見臨港鉄道は軍需輸送に欠くべからざる鉄道として,第二次世界大戦中の1943年(昭和18)7月1日付で国有化され,国鉄鶴見線となった.

 この地域の工場従業員の通勤輸送の急増によって,鶴見臨港鉄道が国有化の年に増備した電車のなかには,日本最初の通勤用4扉車(サハ220・260形)があった.これは日本の車両発達史のうえで特筆すべきものであり,翌年に国鉄が戦時型電車として製作を開始したモハ63形の先駆ともいうべきアイデアの先取りであったといえよう.

 第二次世界大戦中の通勤輸送需要に応ずるため,川崎市電が昭和19年3月,川崎駅前−日本鋼管前間に路面電車を建設する特許を得たのは,ガソリン不足でバスの運転が困難になったことによる.昭和19〜21年に市電川崎−桜本間が開業されたが,戦後の1969年(昭和44)3月31日限りで廃止されている.

 一方,神奈川県と川崎市によって埋め立てられた浮島町,千鳥町などの新しい埋立地には,石油化学コンビナートを構成する工場群が立地した.これらの工場群の貨物輸送のために浜川崎から国鉄の貨物線が延長されて,1964年(昭和39)3月25日,その先端に塩浜貨車操車場が開設された.埋立地に立地する各工場に対しては,同操車場から神奈川臨海鉄道が同日付で開業している.この鉄道は神奈川県,横浜市,国鉄,進出企業の出資によって成立する「臨海鉄道」で,この種の鉄道としては,その前年に開業した京葉臨海鉄道に次ぐ第2番目のものであった.


*各企業については次の資料・文献による.

 鶴見臨港鉄道……『鉄道省文書』(鶴見臨港鉄道)

 海岸電気軌道……『京浜電気鉄道沿革史』(京浜急行電鉄,1949)

 神奈川臨海鉄道…村野文男:「臨海鉄道の概要」,及び青木栄一:「臨海・臨港鉄道の系譜とその性格」,ともに,鉄道ピクトリアル238号,(1970),所収

 川崎市電…………益井茂夫:「川崎市交通局」,鉄道ピクトリアル135(1962),所収



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