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東京が近代日本の首都として成長していく過程で,1932年10月1日を期して東京市は隣接5郡品川町ほか81カ町村を併合し,旧東京市15区に新たに20区が設置されて東京市35区となり,人口も500万を突破した.すでに旧東京市時代にその周辺の大森,玉川などは近郊蔬菜生産地帯に組み入れられていた.台地上には1918年に田園都市株式会社が発足して田園調布,洗足方面で土地を買収し,田園都市計画によって高級住宅地が造成された.多摩川の沖積低地の水田地帯にも,東京市民向けのカーネーション,バラ,シクラメンなどを生産する園芸業者が土壌と近接立地で集まってきて玉川温室村を形成した.1924年に栽培が始まり,1937年には31戸,39,600m2の温室が出現した.第二次大戦による衰微と戦後の住宅地化によって,秦野盆地などに遠心移動したり,貸鉢業や花屋へ転業したりして衰退していった.
多摩川低地には,「目黒のタケノコ」が遠心的に移動した竹林も増えた.さらには,台地に比べて相対的に地価が安いこともあり,また1907年に開通した渋谷−二子玉川間の玉川電車の便によって,遊園地玉川園が,東横線によって丸子園,ずっと下っては読売巨人軍グランドなど,いわゆる都市周辺的施設が風光と清流に恵まれた多摩川低地の水田や梨畑を蚕食していった.
多摩川三角州について,1937年に山本熊太郎(参2)は『新日本地誌』関東・奥羽編(古今書院)で次のように述べている.「多摩川下流はほぼ二子町を扇頂として大師河原に至る尖三角州が延びる事15km,幅は大森・蒲田・川崎・鶴見間10kmに亘る東京湾特有のデルタである.昔は大山街道の二子ノ渡,東海道の六郷の渡し場があって,いわゆる江戸城防備の策から橋を架けさせなかったため,江戸を発つ旅人が送り送られて川崎宿が丁度涙の別れ場であった.今は自動車の疾駆する15間幅(狭いところは10間幅)の京浜国道が阪神国道に比すべき大道路であり,立派な橋が架っている.その内側には京浜電車,また,その内側に東海道線の複々線,さらに目蒲電車と東横電車とが三重四重に長蛇の橋梁を渡して,東京・横浜間を一体に結びつけている.この界隈もまた東京の都市性や近郊性に支配される.特に川崎市のごときは東京・横浜両勢力の核心をなしていて,東京のイーストサイド(East side)と呼ばれる工場の埃(ほこり)にまみれた屋根が地上いっぱいに連続している.が,扇頂多摩川河畔は幾千坪を誇る温室の屋根続きで,真冬もトマトやスイートピー,カーネーションが香っているかと思うと,六郷のゴルフリンクは東京郊外のゴルフリンク群の1つをなす.
また,扇端の大師河原には大師行電車が走り,デルタ上沿岸十里に亘る桃林は年産45万円,岡山,大阪と共にわが国屈指の産額を挙げている.桃の外梨やイチヂクも多く春は五月桃梨一時の粧いは大師詣りばかりでなく花客も迎える」.