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小田内通敏がその名著『帝都と近郊』(参1)で,東京郊外の都市化に伴う複雑な現象を描き出しているが,それは1910年代の東京であった.住宅地帯は今日の山手線・東海道線沿線止まりで,今日の大田区・世田谷区の大部分は蔬菜栽培地帯であった.それも砧村,千歳村,狛江村,神代村が限界で,今日の多摩川中・上流部は伝統的農村のままであった.深大寺の湧水から流れ出る小川の両側は水田であったが,周囲はうっそうたる森林であった.『帝都と近郊』の中の引用は次のようにある.「深大寺より北の方武蔵野新田の地へ通行せしに,広大なる事筆紙に尽し難し,人家もなき深林の中を二十丁三十丁も蜘手の如く行のくること故に,終には方角も取失ひ磁石なくては行路を迷ふべき地なり,この辺一村を中国筋に置けば十箇村ともなるべし.案内の者なくては通行もならぬように思ひき」.(『四神地名録』)
明治末年の1905年から1973年までの3/5世紀の首都50km圏の緑地面積の減少(図8.3.1)をみると,明治末の東京市域の周囲10kmと,中央線など放射状に延びる交通路線に沿って緑地の減少率が大きかった.多摩川中流部,5万分の1地形図青梅図幅(図8.3.2(1),図8.3.2(2),図8.3.3)について,1908,1921,1972年の3つの時期の土地利用状況について計測すると,多摩川流域の農業環境の変化がわかる(参20).
明治末の1908年の土地利用で目立つのは桑であり,浅川と平井川にはさまれた秋留盆地底のほとんどが桑園で埋めつくされ,桑こそは多摩川流域の台地の主力作物であった.
第二次大戦をはさんで約半世紀後の,高度経済成長前夜の1959年の土地利用は,桑園と平地林が普通畑に変化した.普通畑の割合は8%から30%へ急増し,土地利用種目の第1位を占めるようになった.桑園は25%から3%へとほとんど全滅してしまい,立川飛行場北側に残っているだけである.
所沢だけにしかなかった飛行場は,第二次大戦時の日本軍による増設と,それを引き継いだ米軍によって横田・立川・昭島にもでき,立川駐とん部隊,府中米軍基地などとともに軍用地が拡大した.五日市線・八高線(上州の絹を横浜へ運ぶためにできたシルクロード線)・南武線・多摩湖線・飛行場への引込み線も増えて鉄道用地も拡大した.
集落も12%から17%へ拡大した.その主なものは,東京農工大,津田塾大,東京学芸大などや,国立市の学園都市,小平学園都市へ都心から移転してきた大学や住宅,さらには第二次大戦中に京浜工業地帯から疎開してきた工場群で,府中市北部の東芝,日本製鋼や日野市の日野自動車などが大きなものである.
高度経済成長の終わりを告げる第一次オイルショック前夜の1972年の土地利用は,普通畑・山林・水田・桑園の減少に代わって集落・鉄道が増えた.八王子の工業団地,羽村の日産自動車,日野自動車を中核とする工業団地などである.中央線,京王線に沿ってコナーベーション化が進んだ.鉄道の新しいものとしては国鉄武蔵野線・西武拝島線である.
1908年から1972年までの64年間の土地利用の変化をまとめてみると,25%も占めていた桑園が全滅し,山林は半減し,武蔵野台地面上での平地林は大きく後退した.逆に普通畑が3倍増し,工場・学校・住宅などの集落も倍増した.桑園と山林が普通畑に転換し,さらに普通畑と山林の一部が高度経済成長期に,住宅地及び工場用地として都市的土地利用に転換された.