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(1) 川崎市の観光梨園
多摩川梨の観光農園は1927年(昭和2),小田急線が開通して,多摩川南の多摩丘陵の自然公園である向ヶ丘遊園を訪ずれる観光客に沿道の数軒の農家が梨を直販したことに始まる.観光客が沿道の農家から梨を1個,2個と買っているのをみた登戸の伊藤新蔵が,「これを直接本人にもぎとらせたならば都会の人は喜ぶし,市場出しの手数もはぶけ,すぐ現金になる」と考えた.登戸の農家を誘い,小田急電鉄の協力を得て,1928年に「もぎとり即売会」を結成したのが観光梨園の始まりである.開通当初の小田急電鉄も乗客増加策として,梨もぎを宣伝して新宿駅に案内師を置いたりした.農家側にとっても出荷経費がいらず,よく売れて収益を増したが,大東亜戦争による農産物の供出と,不用不急作物の梨は水田などへの転換を強いられた.
1948年,果樹園増植5カ年計画をたて,梨の再興を図った.1955年ごろから各地の新興梨産地が増え,川崎の梨と市場で競争するようになってきた.川崎の梨は個人出荷で組織力が弱く,もぎとり即売の残り物が出荷されると思われたりして市場での競争力は弱く,東京中央市場よりは周辺の地方市場への出荷が多くなった.1960年代の高度経済成長によって東京に人口が集中し,これら都市住民のためのレジャー施設がまだ広いオープンスペースの残っていた多摩川河川敷や多摩丘陵に造られるようになった.
1950年,登戸の農家4名が観光協会の協力を得てもぎとりの宣伝を開始し,1951年9月,小田急登戸駅下で宣伝即売を始めた.1952年4月,登戸と宿河原の農家によって「登戸梨もぎとり会」が設立されたのが,戦後における多摩川梨観光販売組織のスタートであった.もぎとり会の成績がよかったので,1955〜1958年にかけて各集落ごとにもぎとり会が設立されていった.1954・1955年に多摩川梨のもぎとりはNHKによってTV・ラジオによって紹介され,観光客は増加の一途をたどった.観光業者が農家との間に入って観光客をつれてくるようになって,もぎとり会の協定価格もくずれ始めた.そのため1960年4月19日,「多摩川梨もぎとり連合会」が結成され,価格の統一,経費の節約,PRの拡大,資材の共同購入などを一元的に扱おうとした.多摩川梨もぎとり連合会には川崎市の12のもぎとり会や組合が加盟している.
1965〜1970年に全盛期を迎え,観光バスなどによって多くの団体客を誘致した.しかしモータリゼーションと高速道路網などの整備によって都市住民のレジャー行動圏は拡大し,市街地にとり囲まれた梨園は風景的にも観光要素としては魅力のないものとなってきた.かつて多摩川梨を視察したり,多摩川から講演依頼をして発達した新興観光園と競合することにもなってきた.1975年ごろから過剰気味の梨を地方発送したり,スーパーの店先販売などをした.(表8.3.9 観光販売の歴史)
1960年に結成された「多摩川梨もぎとり連合会」の活動方針は次の5つである.
1.資材(もぎとり用ビニール袋・ポリ籠・紙袋・テープ・掛紙など)の共同購入
2.協定価格の決定
3.ポスターの作成
4.観光会社などへのPR
5.交通・駐車などでの警察などとの折衝
最も重要なのは客誘致のためのPRである.1980年にはポスター作成に55万円をかけた.その内訳は印刷代45万円,写真撮影5.5万円,発送料3万円,雑費1.5万円であった.費用の調達は観光協会1万円,県園芸協会1万円,県果樹連合会1万円,多摩農協15万円,中央農協7万円,多摩川梨もぎとり連合会15万円,川崎市商政課15万円であった.
作製した1,100枚のポスターは,東京南鉄道管理局,東京西鉄道管理局,東京北鉄道管理局にそれぞれ100枚ずつ発送し,管内の駅に掲載してもらう.国鉄の場合,川崎市商政課との交渉で掲載料は無料,残り800枚は観光業者,バス会社などに発送した.
多摩川梨の観光販売の方法には次の4種類がある.
1.もぎとり即売:客を自由に梨園に入れて自由にもぎとりさせる
2.沿道直売:自動車の通る道路上に出店陳列販売する
3.出店販売:繁華街・スーパー店先・駅頭などに出店販売する
4.庭先販売:梨園あるいは自宅庭先で陳列販売する
この4観光販売形態のどれをとるかは農家の置かれた立地条件に左右される.川崎市の多摩川梨もぎとり連合会加盟の12のもぎとり会・組合(世喜・宿河原・登戸・中野島・菅・稲田堤・土淵・明王宿・黒川・高津・宮前・長尾)の構成員,特色などを概略すると次のとおりである(参17).
@ 世喜 会員26名 もぎとりが主体であるが,沿道直売も可能.東横線綱島,元住吉,菊名駅前での出店販売も行う.
A 宿河原 会員29名 もぎとり即売と沿道直売が主体でその比は6:4.引売りをする者2〜3人.農家はアパート・駐車場などの不動産収入があるため,梨の収入は1/3程度.広告チラシを幼稚園に送付.組合で1シーズン10台前後のバス団体客を受け入れ,各農家に振り分け,立地条件の不利な農家をカバーする.
B 登戸 会員34名 80%がもぎとり即売.立地条件の悪い農家のために,向ヶ丘遊園駅と読売ランド駅前で出店販売,場所代マージンは売上げの10%.PRとして新聞記事になるような前夜祭行事を行う.鉄道交通の要衝にあるため,アパート・貸家などの不動産収入があり,梨園の平均は20〜25a程度.
C 中野島 会員24名 もぎとり即売と庭先販売が主体.もぎとり客の減少から,読売ランド,綱島,生田などの多摩丘陵新興産地はトラックで引売りする者も現れた.梨園の平均規模は40a,農家収入の7割がアパートなどの不動産収入.
D 菅 会員58名 バスによる団体客(幼稚園・婦人会)もぎとり即売に主力をおいていた.1960年ごろ1シーズン300台も入ったが,今日100台未満.川崎駅前出店販売で,場所代マージンは売上げの17%とられるが,立地に不利な農民には魅力があり,1日平均16〜17万円の売上げがある.出店販売の労力はグループの当番制であるが,当番日は農作業がつぶれる欠点がある.「梨狩りを兼ねて読売ランドへ」とチラシを作成し,静岡方面にまで顧客の開拓に努めている.
E 稲田堤 会員28名 団体主体のもぎとり即売が主体であった.1975年ごろまでは1シーズン500〜600台のバスが入ったが,石油ショック以後100台前後.横浜,東京のスーパー(約10店)での店先販売.横浜市緑区と東京新宿のスーパーで場所代マージンは売上げの12〜15%,販売期間は3日間,8月下旬〜9月上旬,産地直送販売を行う.それ以外は主に固定客相手の庭先販売.80%の農家は不動産収入あり.
F 土淵 会員24名 府中県道が貫通しているため,梨栽培農家の6割が沿道直売を,残る4割は日曜日行楽客相手のもぎとり即売.固定客がないため,近年の落ち込みは大きい.平均梨園規模は20a,農家の6〜7割は不動産収入の主体をなしている.
G 明王宿 会員10名 土淵の東隣りで,同じように県道が貫通している.1956年に始まった沿道直売が全売上げの65%,残る35%がもぎとり販売.川崎市内でも最も観光販売の色彩の濃いところで,府中県道沿いに梨園があり,看板が多く立っている.観光客の心理からは店がたくさんあるので安心して買えるらしい.1956〜1970年,組合が川崎国際カントリー倶楽部で販売所を設けていたが,今日では個人で2名が販売している.平均梨園面積は20a未満が8割を占める.不動産収入が主力の農家は9割に達している.
H 黒川 会員19名 多摩ニュータウンに東隣する丘陵地で,小田急多摩線が縦断し,京王相模原線が北端をかすめている.1953年都市化で栽培中止された溝口の梨を移植したのが黒川地区の梨栽培の始まりである.1965年ごろから共同販売体制を確立し,約10個所(小田急永山駅,京王多摩センター,調布駅,京王線青葉台駅,黒川駅,鶴川街道,国道16号,国道246号,柿生農協前)の販売所に組合員の梨をもちよって販売している.栽培の歴史が新しいため積極的に他所で販売する方針をとった.共同販売の売上げはプールし,各農家の出荷量に応じて分配している.1975年以降小田急とタイアップしてクーポン券で梨もぎとり販売を始めたが,もぎとりは日曜・休日のみのため,共同販売7に対してもぎとり3の割合である.小田急,京王ともにもぎとり客は鉄道を利用してくれるので無料でポスターを掲載してくれる.西隣りの多摩ニュータウンの人々への積極的なPRを行っている.共同販売は長所の反面,品質の不統一,販売諸経費の増大といった短所もある.1kg230円の長十郎梨の農民の手取りは170円にしかならない.場所代マージン,運送費,組合諸経費のためである.市街化調整区域に入っているため不動産経営はできず,植木屋などの雇われ兼業をしている.平均梨園面積は15aで,新興産地として,どの程度まで伸ばせるかが今後の課題である.
I 高津 会員19名 多摩川最下流部の最も都市化の進んだ地区のため,市街地の中に梨園が点在する.梨園に設けた小屋での庭先販売がほとんどである.盛りを過ぎた産地の典型で,協定価格よりも低価で販売しており,1kg230円の長十郎を 200円,300円の青梨を280円である.生産量の3〜5割を市場出荷しているが,1kg40円と買いたたかれ,梨栽培の末期的症状を呈している.
J 宮前 会員14名 田園都市線宮前平駅南方の多摩丘陵で,もぎとり,梨園での庭先販売,組合出店販売の3種類の販売方法をとっている.共同販売所は「さぎ沼東急店」前で,8月25〜9月10日ごろまで開かれ,場所代マージンは売上げの15%.栽培の歴史15〜20年の若い産地であるためPRに力を入れている.8月下旬新聞折り込み広告を地元宮前地区に出し,5万部配布.新住民に梨栽培と観光販売の存在を知らせる.平均梨園面積は50〜60aとかなり広い.経営主は20代3人,30代5人,40代以上6人で,最年長者でも57歳である.半数以上の農家が後継者をもつほど生産意欲の高い地区であるが,不動産収入を超える梨収入をあげている農家はない.
K 長尾 会員7名 府中県道の新道・旧道にはさまれて,マイカーによるアクセシビリティーは大きい.ここ16年程度の新しい産地で,ブドウ栽培も併存し,長年の固定客をもっている.出店販売を中央農協向ケ丘支店の店先で行い,2軒の農家が20日間出店販売している.平均梨園面積は20a未満.駐車場・アパート・貸家などでの不動産収入が農家収入の65〜70%,梨による収入が30〜35%である.梨園経営者は高齢者が多く,若くとも55歳で,ますます不動産農業化していくであろう.
1955年以降1977年までの梨もぎとり即売価格と市場(横浜中央卸売市場)価格を対比してみると,もぎとり価格は市場価格より10〜35%も高かった.市場へ出荷した場合には,市場価格からさらに運賃・梱包資材費・公銭などを取られると,もぎとり即売による現金収入と市場出荷による収入との差はさらに大きくなる.(表8.3.10 年次別梨もぎとり価格と市場価格)
(2) 稲城市の梨販売方法の変化
第二次大戦前の販売方法は主に市場出荷であった.いわゆる近郊農業の利点を生かして,市況の変化に機敏に対応し,最も有利に売れる時期に出荷していた.多くは早生の青梨を,多産地の二十世紀が出回る直前をねらっての出荷であった.いわゆる初物(プリミュール)であった.多産地が大量生産・共同選果・共同出荷・安定供給・継続出荷体制のいわゆる産地形成してくると,ゲリラ的産地の多摩川梨は中央市場から歓迎されなくなり,ほかの市場や販売方法を開拓しなければならなくなっていった.すでに戦前でも赤梨は中央市場ではなく,八王子・青梅・五日市・横浜などの周辺市場を開拓していた(表8.3.8参照).
1927年,天皇に早生赤梨160個を献上したこともあって,1940年10月,第一皇女照宮成子が,1941年9月には第二皇女(鷹司夫人),第三皇女(池田夫人)が東長沼地区と押立地区の梨園を遊覧され,川島家で休息.中食後,梨を試食のうえ土産に持ち帰った.これは観光梨園の萠芽であった.
もぎとり即売は稲城市では戦後に始まった.1951〜1955年に3軒,1956〜1957年3軒,1958〜1959年7軒,1960〜1961年14軒,1962〜1963年21軒という具合であった.市場出荷を止めてからが広い意味の観光販売の開始であった.1950年代には府中の甲州街道筋へ出店する農家が32ほど,その他調布市内や横浜への出店直売を含めると50軒ほどあった.市内を貫通する都道に土地を借りて直売所を設ける農家は75軒(1964)あった.1坪5,000円の地代で8・9・10月の3カ月間,2坪ほどを沿道の駐車場として借りて,直売していた..直売所はよしずばりでトイレもなく,木箱を並べただけのもので,雨と日射を防ぐトタン屋根で覆われていた簡単なものであった.
11軒が1グループになって1957年に観光果樹協会を結成し,観光バス会社と契約して,年間100台ほどのバスを受け入れていた.会員は15〜60a程度の梨栽培農家であった.個人でバス団体を受け入れていたのは1ha以上の大農層で5〜6軒あり,観光業者にリベートを支払うことはいうまでもない.客の受入れ施設は粗末なもので,農家の座敷の開放が大半で,甲府盆地東部の高いブドウ棚の下にバスを入れ,万国旗で飾り,机・椅子を並べるといった風情は梨の場合なかった.もぎとりとして,お茶を飲んで,1〜2時間もあれば十分で,観光地としての価値は低かった.バス会社や観光業者の連れてくるもぎとり客数も不安定であった.
1962年に市南東部の丘陵上は読売ランド遊園地が開園され,それに隣接する25軒の農家はKバス・Xバスの発行する指定梨園となった,クーポン客は5〜100人と差があり,南部線矢野口駅に近いほど客数は多かった.現代の客は重い梨をもって歩くのを嫌うためであった.
1964年当時即売価格は多摩川流域共通に1kg赤梨50円,青梨75円と決められ,4kg入りの梨籠1籠赤梨200円,青梨300円で,クーポンマージンとして農家はバス会社に30円払っていた.しかし,選果品と称して協定価格よりも高く売られる場合が多く,特に車から下車せずに衝動買いする場合などは,高いものをつかまされることがあった.
東京近郊の利点を生かした臨機応変の中央市場出荷も,戦後の社会が落ち着きを取り戻して共選共販による産地形成を進めてくると,稲城市の梨栽培は中央市場での競争力を失い,地方市場へ回るか,観光販売へ転向せざるをえなかった.東京・横浜近郊という位置がまた観光的梨販売を可能にした要因でもあった.また,共同で観光客受入れ駐車場を造ったり,共同出荷したりといった共同歩調がとりにくいことが,都市近郊農業の弱点でもあり,強味でもある.経営者の裁量の余地の大きい,いわゆる自由式農業経営なのである.交通の発達がかつての近郊産地をデフォメートしていったよい例といえる.
(3) 日野梨の販売形態
日野市の梨栽培農家の60戸について1974年に梨の出荷方法を聞いたところ,即売のみ(市場出荷率1割未満)12戸,即売が主(1割以上5割未満)8戸,市場出荷が主(5割以上10割未満)30戸,市場出荷のみ(10割)10戸であった.即売のみの12戸の分布をみると,浅川右岸に川と平行して走る都道173号,川崎街道に沿っている.即売が主の8戸のうち5戸は川崎街道に沿い,3戸は中央線豊田駅東北東の浅川の沖積低地にある.市場出荷が主の30戸は,2戸を除いて多摩川と浅川にはさまれた多摩川の沖積低地に分布している.市場出荷のみの10戸は1戸を除いて同様に両川の間,中央高速と浅川の間の交通の便の悪い所に集中している.
自動車道路に沿った農家は消費者の需要があったため,もぎとり即売に転換したが,自動車道路に面していない農家は市場出荷をとっている.60戸のうち40戸が市場出荷のみ,及び市場出荷が主の農家で,1974年当時は梨栽培農家の67%が市場志向であった.もぎとり即売を開始した理由は,市場出荷に比べて収入がよく,かつ安定しており,出荷経費が節約できるためであるが,誘因は周辺に多摩平団地,鹿島団地,南平団地,多摩動物園などができて,近くに梨消費者の大群が発生したことであった.出荷に伴うダンボール箱・運送費・公銭手数料などが不用のうえ,入園プラス梨の販売額がキャッシュで入るのが,もぎとり即売農家の最大の魅力である.
(4) 昭島市
青梨は東京中央市場へ共選共販されていた.12個入り化粧箱に入れ,8月初旬から初物として神田市場の東印,豊島市場の旭青果,淀橋市場の丸新の3社に指定して出荷していた.共撰は1962年に始まった.1964年当時の価格は8月初旬で1箱450〜300円,下旬になると280〜200円と下落した.下旬には鳥取,長野,福島などの多産地の出荷が増えるからである.
赤梨は東京市場ではなしに,周辺の立川,八王子,青梅市場に出荷される.赤梨は1961年以来共同出荷を止め,生産物の処理は栽培農家個人の手にまかされるようになった.
(5) 多摩川梨の販売形態
下流先進地の川崎市,中流部の稲城市,上流部の日野市の3個所の販売形態を比べてみると,販売形態に発達の順序が現れている.もぎとり即売率は川崎市で67%(1972年川崎園芸協会推定),稲城市で38%,日野市で15%,沿道直売率は川崎市20%,稲城市49%,日野市15%であった.下流から上流への梨栽培の立地移動に応じて,販売形態にもそれぞれの歴史と栽培農家のこれまでの努力に応じて,下流から「もぎとり即売」,「沿道直売」,「市場出荷」といった販売形態の地域的特色が認められる.