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関東山地の山麓地帯の森林植生は暖帯林と温帯林の境界帯で,ナラ・シデ・クリ・ハンノキ・カシなどの広葉樹に,ツガ・ヒノキ・モミ・アカマツなどの針葉樹を混じえた混交林(参23)で,樹種・蓄積ともに大きかった.このような森林資源の存在が,林業の起源になったと思われる.
こうした関東山地の山麓地帯を中心とした相模・武蔵地方の森林は中世末から保護が行われてきたが,木材としての商品的価値が特に高くなったのは,1603(慶長8)年の江戸開府以降であった.近世初期から中期にかけては,多摩川・秋川両流域の天然林を択伐して木材を江戸へ運送していた.したがって,江戸出し用材は針葉樹や広葉樹等雑多な樹種で,特にクリ・アカマツに至っては,明治期になっても深川の木場で「青梅物」としてこれを標準に値が立てられたほどである(参24).
天然林の伐出によって始まった青梅林業も,人口100万人を擁する江戸市街の発展と,繰り返される大火によって木材需要が急増したことや,建築用材が次第にスギ・ヒノキなどの均質な高級材へと移行したことなどにより,近世後期になるとスギが中心となり,年間出材量も筏(いかだ)にして4,000〜4,500統,石数に換算しておよそ5〜6万石に達した.資料によると青梅林業地域でスギの人工造林が開始されたのは1668年(寛文8)である(松村,1964)が,本格的に行われるようになったのは,江戸時代末期の文化・文政(1800〜1830年)以降のことである.しかし,材質の点では,江戸近郊の青梅街道・五日市街道・甲州街道の往還に沿った地域(現在の練馬区・杉並区・世田谷区高井戸付近)で行われていた「四谷林業」(参25)地域の杉丸太(「四谷丸太」という)に比べれば,決して良質ではなかった.
その後,1900年ごろに「四谷丸太」の生産地でスギの赤枯れ病の被害が大きく,供給量に異変を生じたことなどを契機として,青梅林業地域はスギ・ヒノキなどの良質材生産へと移行した.また,明治になって政府は皆伐大面績造林の吉野林業の施業方法を奨励したので,この地方においても,その経営法を取り入れ,長丸太・小角物などを中心とした集約的な短伐期林業地域となった.一般にスギは30〜40年が伐期で,ヒノキはこれよりやや長い.
伐採された木材は,近世初期は管流(くだながし)で,後に筏に組んで多摩川を流送して深川の木場へと運ばれた.江戸への木材の供給は東海・紀勢地方の下り荷と,青梅・西川・高麗(こま)川材(近世期には,埼玉県名栗川流域の林業を西川林業と呼んだが,明治にはいって高麗川流域の高麗川林業も合わせて西川林業と呼んでいる)の地廻り荷であった.
地廻り荷の利点は筏流送が可能なことで,輸送費は素材原価の12〜16%であるのに対して,紀州材価格の半分は海上運賃で占められ高価であった(参26).また,地廻り荷の中でも,西川材や高麗川材は筏流送のさいに流域の村々との紛争が多く,差し留められたり,冥加金を支払ったりしたため,多摩川の流送より高価であった.また,青海村は筏流送に要する日数が短く,渡場から十数日で木場に到着し得たので市況に応じて出荷できた.さらに出荷期がほぼ江戸市況の高騰期である2月及び8月に当たり,入荷は海が荒れて杜絶した「囲いの中」で価格が高い時期であった.
明治以降になっても東京への運材は筏によっていたが,1889年(明治22)には甲武鉄道(現在の中央本線)が立川まで開通し,さらに1894年には青梅鉄道が立川−青梅間で営業を開始するなど,運材過程に大きな変化がもたらされた.このため,筏流は次第に減少し,1921年(大正10)ころには全く衰退して,以後は鉄道・トラックによる運材に変化する.いずれも短時間で運搬ができるので,市場の不完全競争を利用し,小売業者が消費者と直接取引きが可能なため,高い利益をあげることができる.