2.4 青梅林業の生産の拡大と制約
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2.4.2 薪炭生産の消滅

 近世初期に天然林の伐採によって始まった青梅林業は,大消費市場江戸(東京)の発展に伴い次第に集約的育成林業へと変化した.特に明治になって政府が皆伐大面積造林の吉野林業を奨励したので,青梅林業地域においてもその経営法を取り入れたため,造林面積は飛躍的に拡大し,本格的な育林経営が進められた.しかし,青梅林業地域において,用材生産中心の育林経営への転換期は一様ではなく,1930年代の昭和初期まで製炭が重要な産業になっていた地域もあった.一般に多摩川流域の交通の便のよい地域では,育成林業への転換が早かった.それに対して,谷が狭く鉄道の敷設も遅れた秋川流域では,多摩川流域の先進地に比べると育成林業への転換は遅かった.

 1953年(昭和28)の針葉樹植栽面積比を示した表8.3.19をみると,その様子がうかがえる.谷口集落の青梅に近い多摩川流域の旧三田村・吉野村の針葉樹植栽面積比は,秋川流域に比べると高い.秋川流域では,奥地の檜原村が40%に満たない低い割合であるが,それより下流域の五日市町・旧大久野村などは高くなっている.すなわち,多摩川流域の木材の搬出輸送が便利な地域は,早くから育成林業が進められてきたが,秋川流域の奥地では昭和期になっても薪炭生産が重要な意義をもっていた.

 この地域の製炭は,貢租として1417年(応永24)に木炭が生産されたように古い歴史をもっており,近世,八王子炭生産地の周辺に当たり,「五日市炭」として知られていた.原木はナラなどの雑木で,炭材の伐期齢は17〜18年生のものが多い.木炭の種類は,檜原村・五日市町はほとんど白炭で,日の出町は黒炭である.

 製炭者は全部地元民で,他地域からの入稼ぎ者はなく,12〜2月に製炭を行う冬型である.専業者が少なく兼業者が主であったため,林業労働が春秋に集まるために冬型になった.製炭者は原木の保有者が少なく,大土地所有者から原木を求めて製炭しただけに,300〜500俵程度であるにしても,奥地ほど比較的大規模であった.

 近世から盛んに行われてきた製炭も,第二次世界大戦後に一時的な増産期があったものの,檜原では1950〜1952年,五日市町・旧戸倉村では1952〜1956年をピークとして年々減産の一途をたどるようになった(表8.3.20).

 福宿(参35)によれば,わが国全体の木炭総生産量の場合は,1957(昭和32)年をピークとして減産傾向を示しているので,本地域は全国平均よりも4〜7年ほど早くから減産が始まっていることになる.

 こうした傾向は,表8.3.21のように南多摩地域についても同様である.多摩丘陵は近世から木炭の産地として知られていたが,明治中期には,千葉県の下総台地の製炭地佐倉から製炭技術が導入され,「佐倉炭」の名で稲城・鶴川・由木などで生産されていた.南多摩地域の木炭生産は第二次世界大戦前1936〜1940年ごろが最盛期であったが,1960年代に消滅した.

 この薪炭生産の激減の理由は,薪炭生産者が他に高賃金を得る就労の機会ができたのに加えて,薪炭の需要が石油・プロパンガスなどに押されて伸び悩み,価格が低落したためである.こうした薪炭生産の減少ないしは消滅により,拡大造林地として植林が進められていった.



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