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2.4.3 明治期以降の育成林業への発展−秋川流域,檜原村を例として−
(1) 育成林業地域の成立
秋川の最奥地檜原村での育成林業への転換期は,多摩川流域より遅れ大正以降であった.したがって,檜原村の育成林業への過程は,近世の旧形成の青梅林業における明治以降の新形成と対応する.
檜原村は古くから林野を中心として生業を営んできた山村である.耕地な近世以来,経営規模が零細で,しかも,豊作といえる年でも3カ月の食糧の生産も不能であるという状態であった(参36).したがって,多摩川上流山岳地域の他の農林家と同様,明治初期における檜原村の農林家の再生産は,冬季の薪炭製造と夏季の自給農業の結合が一般的であった.その後,表8.3.22のように製炭に加え,1892〜1897年(明治25〜30)ごろから本格的に行われるようになった養蚕が重要な現金収入源となった.
1926年(大正15)に村生産額の40.6%を占めていた繭も,1935年になると17.7に落ち,それに代わって林産物が61.9%を占めるに至り,次第に養蚕から林産物へと経済の中心が移行していった.それは1923年(大正12)の関東大震災の復興材として,搬出に便利な集落から出された用材によるもので,図8.3.15の伐採面積が1923〜1924年に増加していることからも知ることができる.
この木材景気により,50ha以上の経営規模の大きな農林家は天然林の伐採だけでなく育成林業の有利性に着目し,小面積ながらサスと呼ばれる集落に比較的近い切替畑への造林を開始した.切替畑の林地転換は地拵え(ぢごしら)えの作業が不用なため容易に行われた.しかし,この階層でも造林は自己資本によるものとは限らず,他の資本によるものがある.すなわち,明治期にすでに分収林(「植え分け」と呼ぶ)がみられ,これは山林地主が地盤を提供し,借主が造林,その後の保育を行うもので,初めに伐採の時期やその取得配分を取決めるものである.
分収比率は搬送の難易にも関係し,一概にはいえない.地主と借主の比は6対4,5.5対4.5,4.5対5.5,4対6のことがあるが,5対5が最も多い.図8.3.15において,1925〜1930年の間に造林面積が漸増しているのはこうした私有林の小規模な造林のためであった.しかし,1930年以降の造林面積の飛躍的拡大は,東京府が府行造林規程を制定し,御大典記念や紀元二千六百年記念事業として府行造林(後に都行造林)が実施されたためである.
この造林対象地は,かつての組有地であった集落から遠隔地の萱野を中心とした約1,900町歩の原野で,水源涵養保安用林地として1919年に編入された.こうした大規模な府行造林に刺激され,次第に一般農林家の造林機運が醸成し,製炭や養蚕による収入を造林資金として投入するものも現れて,育成林業が進行した.
第二次世界大戦後の復興材の伐出などにより、1953年(昭和28)には林業が村生産高の70.5%を占めるに至り,そのうち54.8%が素材生産によって占められるようになった(表8.3.22).また,製炭業の不振に伴う林種転換や,建築ブームによる小径木の小角材や足場丸太等の需要が増大し,農林家の造林意欲を刺激し,拡大造林が進められ,図8.3.15のように,造林面積も著しく拡大し,檜原村の林業は薪炭生産から用材生産を王とする,集約的な育成林業へと転換された.
檜原村の林業は,小径木の小角材・足場丸太の生産を主とする平均30年といった短伐期のため,農林家の再生産構造はおよそ林地保有面積30haを境にして分化した.前掲の表8.3.17のように,檜原村では圧倒的多数を占める30ha未満層では,自営林業経営は農業経営を補充するものとしての性格が強かった.また,造林の進展に伴い林業労務,道路及び林道の敷設等の林業に関連する賃労働への就業機会も多くなった.30ha以上層の林家になると,地代取得的性格を強くもった育林(用材生産)経営が独自の性格を占める.このように第二次世界大戦後から,1960年代の高度経済成長期前期まで,林業は檜原村全体の経済活動の中心となっていた.
(2) 林業経営の衰退
檜原村の造林面積は,東京都全体(図8.3.14)と機を一にして1962年をピークに年々減少の一途をたどった(図8.3.15).その要因としては,1950年代に薪炭生産から用材生産を目指して造林が飛躍的に増大し,人工林率が高くなったことがあげられる.そして,造林対象地が奥地になって拡大造林が困難になったことや,造林後間もないため若齢級の林分が多く伐採も進展せず,造林が停滞したことなどによる.また,経済の高度成長期の1960年代後半には,日本林業と強い競合関係にある外材の輸入増加による国内材価格の横ばいの影響があった(関東農政局西北多摩統計情報出張所,1975).さらに,小径木の小角材や足場丸太を中心とした檜原村林業は,不燃建築物の増加や鉄パイプ等の代替物の増加により,需要の減少をみ,間伐材等は商品価値がほとんどなくなった.こうした状況のため,多くの農林家は将来の林業経営に対して危惧(きぐ)の念をもち,造林意欲を減退させた.
表8.3.23は約70haの山林を所有する檜原村の林業家の林業経営の概況である.1975年までは毎年30a前後を伐採し,跡地に再造林を行ってきたが,林業所得は家計充足率の約4割程度で,残りは多少の農業所得(保有耕地70a)と勤労所得に依存してきた,
1975年以降は市場で小径木の需要がほとんどないのと,小面積では伐採・搬出等の林業労賃の高騰により採算割れが生じるため,この農林家では伐採・出荷を停止しており,林業収入が全くない.1970〜1975年の林業粗収入における経営費の占める割合をみると,均48.7%に当たり,林業が檜原村の中心的産業であった1955年ごろにはわずか7%であったのに比較すると,経営費の高騰が著しい(犬井,1979).
経営費のうち最大なのは,平均81.7%を占める林業雇用労賃である.すなわち,経営の増大は,主として林業労賃の高騰によるものである.間伐材や小径木の小角材・丸太の需要減少に対応して,伐期の長い長径木生産への移行も山林の保有構造が零細なためほとんど困難である.1950〜1960年代には,自営林業・林業労賃をもたらし,檜原村経済の中心となった林業も,1970年代以後になるとその地位が著しく低下し,次第に資産保持的貯蓄的性格が強くなってきている.