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青梅は古くから青梅線や青梅布団縞で有名な織物の町であったが,1979年の繊維・衣服工業は98工場,771人で約65億円の生産を行い,それぞれ青梅市工業の13.8%,6.7%,3.8%を占めているにすぎない.ところが1956年には,579工場,5,021人で35.2億円の生産を行い,それぞれ全工業の79.0%,65.9%,65.1%を占めていた.繊維・衣服工業が青梅の工業生産の過半を割っていくのは,出荷額が1961年,従業者数が1962年,工場数が1968年のことであった.
青梅織物の起源は定かでないが,青梅の多摩川沿いにも調布という地名があり,1441年(嘉吉元)には市場の開設されたことが記録にみえたり,かなり古くから織物業が盛んであったと思われる.しかし,青梅の織物が綿織物を特色とするようになったのは,あまり古いことではない.『慶長見聞録』(1614−慶長19年)によれば,1521年(大永元)に熊谷宿で木綿の種子を売買する西国の者が初めて関東に木綿の栽培を伝えたと考えられ,『毛吹草』(1638−寛永15年)にみえる武蔵国産の滝山横山紬島が八王子織物で,木綿島が青梅織物であったと考えられる.
青梅縞はタテ縞,ヨコ縞の交織物で延宝のころ(1661〜1680年)著名となり,素木綿の青梅桟留(縞)は寛政のころ(1789〜1801年)名声が高まった.桟留は紺地に赤茶色のタテ縞を織り出した綿織物で,南方の更紗ふうで人気を集め俚謡にも歌われた.これらの織物は青梅周辺の農村の農家で農閑余業として織られたものであり,青梅の市場に集まって取引きされた.青梅の市は縞市とも呼ばれ,後に新町へ市日分けするまでは,2・5の六斎市であった.また,青梅縞が全国でも有名になるほど織物法が発展して,市と農村の織り子をつなぐ縞買・坪売といわれる仲買人も発達した(参61).
青梅織物は,その後も縮しらら・綿八丈・唐桟双子などの新しい織物技術を開発して発展したが,特に1840(天保11)年,桐生から高機の織機が導入されたことと,所沢や川越の問屋によって綿入れ1着分の青梅綿が青梅縞に付けて売られるようになり,ますます発展した.しかし,明治になって,中国大陸や朝鮮半島へも輸出されるようになると,澱粉(でんぷん)の目付けなどによる粗製濫造や,紀州綿ネルなどの他産地物との競合により,1884〜1885年ごろの青梅織物業は衰退した.
そこで1887年(明治20)には,西多摩郡織物組合を設立して製品の改良に努め,双子縞や黄八丈格子縞(青梅夜具縞)などが織りだされ,1907年には豊田式力織機が導入されて生産が増大した.特に1905年の青梅織物同業組合結成以降は,着尺から夜具地へ生産の中心が移り,力織機の導入によって工場制化し,生産の中心が農村の家内工業から調布や千ケ瀬の町工場へ移転した.1916年(大正5)ごろには再び活発に東南アジアへ輸出されるようになり,1932年には綿・人絹交織のテーブルクロスなど輸出向けの広幅織物も織られるようになった.
第二次世界大戦前で生産数量が最大となるのは1919年で,金額では1936年であった.1937年の広幅力織機は252台,中幅1,276台,小幅が3,343台,手織機が1,056台で,織布工場としては296軒あり(農家の手内職を除く),男女3,819人(同,女2,798人)の人が働いていた.また,当時は買継が13軒あり,毎週火曜日と金曜日に市が開かれていた.しかし,その後,急迫する戦時経済のなかで生産が減退し,スフが混用され,織機が供出され,企業合同が行われ,衰退していくのは他の産地と同様であった.
終戦時の青梅織物には75工場1,857台の織機が残っただけであったが,綿紡・綿スフ織機復元に伴い,青梅でも1948年には2,385台(うち広幅888台)が登録されて,内需37万6,000反,1億5,800万円,輸出向け47万2,000ヤード,1億5,000万円の生産に回復し,その後はガチャ万コラ千景気に乗った.特に1951年ごろ,秩父から技術導入したほぐし捺染模様の綿夜具地は好評を得,そのころ,色縞ゆかた地が開発されたり,浜松からロール捺染機を導入してブロック捺染模様の夜具地が生産されたりした.1954年は,ドビー織物によるシーツの製織も行われている(参62)(参63).(図8.3.24 青梅織物の製品変化)
しかし,昭和30年代は生産過剰・織機過剰の時代で,片や日本経済が高度成長するなかにあって,繊維産業には構造的不況が慢性的に繰り返されるようになった.青梅の織物業は1954年の665工場を頂点として,以後,織布工場が減少するようになり,従業員数は1961年の1,998人,織機台数は翌62年の10,372台を頂点として,以後,減少に転じている.生産金額は物価の変動にもかかわらず,戦後一貫して30〜40億円を低迷している.1954年40億円,翌55年激減して37億円,61年40億円に回復し,65年には45億円に突出したが,69年には36億円になり,一時回復したが,74年には30億円まで下がり,76年には再び48億円に突出し,1979年は再び40億円に止まっている.
これは生産力の絶対的減衰を伴いながら,主力製品の転換により,見かけ上の生産力を維持していることになる.1961年の綿スフ織機タオル転換計画によって,青梅でも初めて119台のタオル織機が導入され,以後,製品の広幅化・タオル化が進行している.1969年には小幅の寝具地が50%を割り,70年には広幅が50%を超え,72年にはタオルが20%を超え,73年には小幅が20%を割った.
また,このころから寝具地やゆかた地を縫製して製品化し,付加価値生産性を高める努力が行われるようになった.こうして産地内の縫製業は41軒に増えて作業服や婦人服も手がけるようになる一方,織布工場はタオルを含めて52軒に減少し,織機台数も1,000台を割るようになった(1979年).青梅は先染織物を特色とするがドビー織機によるものが多く,もともと関連集団は少なかったが,捺染業が8,浸染兼業が13,整理が1,撚糸が1,買継が11社で,多摩川に近い調布・千ケ瀬・河辺・長淵に多く集中している.しかし,最近は織物工場から電機部品の工場等に転換するものが多く,軽やかな機音に代わってプレスや切削の鈍い機械音が町並みの間から聞えるようになった.