| 前のページに戻る | 次のページを見る | 目次に戻る | 表紙に戻る |
八王子市の1979年の工場数は1,569,従業者数25,060人,出荷額3,987億円で,これは多摩川中流地域工業のそれぞれ40.6%,25.3%,19.8%を占めており,八王子には比較的小規模の工場が多い.そのうち繊維・衣服工業は,八王子工業の工場数の39.8%,従業者数の14.3%,出荷額の7.7%を占めており,とりわけ小規模である.それに比べて現在の八王子工業の中心は組立機械工業にあり,工場規模も大きく,工場数は全工業の26.4%を占めているにすぎないが,従業者数では59.9%,生産額では68.3%を占めている.しかし,このように八王子で機械工業が発達してきたのは昭和30年代以降であり,それまでは繊維工業とりわけ織物工業が八王子工業の中心をなしていた.
1960年の八王子工業をみると,1,578工場のうちの76.5%(1,207工場)が繊維・衣服工業であり,従業者数の60.3%(9,564人),出荷額の51.0%(120億円)を占めていた.ところが,1965年には繊維・衣服工業の出荷額が組立部品を含む金属・機械工業の出荷額を上回り,次いで従業者数の比率も上回って,1970年には工場数こそ繊維・衣服工業が55.6%を占めているが,従業者数は25.9%,出荷額は21.6%を占めるようになった.八王子は長く織物の町として古くから発展し,先染めの紋織による男物や女物着尺を特色としてきたが,最近はネクタイ生地の生産に特色がある.
八王子織物の起源も古く定かでないが,950年ごろ横山党の祖小野義孝が武蔵国司に任ぜられて横山荘に住み,織物を奨励したといわれ,永禄年間(1558〜1570)に大石定重によって築城された滝山城下には横山町・八幡町・八日市の3宿市があり,滝山紬や横山縞が取引きされていたという.その後,滝山城は1576(天正4)年,北条氏照によって八王子城へ移築され,城下町も元八王子へ移った.そして,1590年落城,1599(慶長4)年には千人同心の制が設けられたが,城は建設されることなく,宿市のみ現在の八王子市街へ移って甲州街道が整備され(1604年),4の日に横山宿,8の日に八日市に市場がたつ六斉の市となり,八王子15宿も1607年ごろ整備され,八王子18代官の住む関東地方支配の地方拠点都市となった(参64).
織物業は従来,八王子周辺の農家が養蚕をして糸をとり,副業的に織り出し,八王子の縞市へ持参して売りさばき,帰りには日用品や農具を買って帰ったものである.ところが,八王子が発展して取引き量が増大すると,明和から天明にかけて(1764〜1788年)農村に専業化した機屋が特に町の西北部−元八王子方面に現れ,寛政ごろ(1789〜1801年)には農村の機屋や農家を回って織物を集める縞買が発達し,仲間を結成して農村の機屋を支配していくようになった.一方,八王子市街には,白木屋や越後屋などの大きな呉服屋と提携した町方の縞買が発達し,在方(農村部)と争うようになったが,依然として生産の中心は農村にあった(参65).
ところが1781(天明元)年,桐生より高機が導入され,文政のころ(1818〜1829年)には博多帯など高級織物の技術が伝えられると市街地にも織物工場が発達し,1892年の『八王子明覧』によれば,織物製造業者200戸,織機1,571台と記されている.さらに1910(明治43)年,電動の力織機が導入されて,いっそう市街地のマニュファクチュア化が進行した.特に1915〜1916年の織物好況期には,完全に八王子織物の中心が市街地へ移った(参66).
この間に織物の種類も変化し,生産構造も分化した.明治の初めはまだ太織の紬縞が生産の主体をなしていたが,次第に新しい技術を導入し,新しい織物を考案した.米沢の絹綿交織や八文島の八端(1873年),桐生の御召(1895年)や川和の強撚御召(1926年)などの技術が導入され,大正になると,従来の男物に代わって女物御召が多くなっていった.そんな中で1924年にはネクタイが織られており,文化銘仙も始まっていた(参67).
紋織のジャカードが導入されたのは,1887年(明治20)の八王子織物講習所(現,繊維試験場)創設以後であるが,生産の増大につれて生産工程が社会的に分業化されるようになった.化学染料や増量染の発達により,1895年ごろにまず染色業が分化し,続いて1900年ごろに糸張業,1920年代に撚糸業,続いて整経業,さらに整理業・仕上げ業が分化した(参68).
第二次世界大戦後の八王子は,他の織物産地同様,混乱のうちに復興し,最初は加比丹銘仙,1957年からは紋ウール・アンサンブルで発展した.組合員数は1948年の730軒から1957年には859軒に増大したが,昭和30年代に入ると減少に転じ,1956年には729軒,1968年には448軒,1976年には319軒,1982年には217軒に減少した.その間,生産は1960年ごろから男物中心に復活したり,ネクタイや雑貨の比重を上げて生産力の維持を図ろうとしたが,1970年の274億円を頂点に生産額も減少に転じた(参69).
都市化や工業化の進んだ八王子が,労働集約的な織物業を続けることは適さず,従来の繊維労働者は高賃金で職場のきれいな電機工場に奪われ,特に低単価のウール着尺はその始まりから郡内の上野原・大月方面へ賃織に出された.1958年ごろから始まって,1963年の郡内依存率は18.6%と思われるが,1973年にはウール着尺の54.5%,現在は99%が郡内に依存している.そして八王子は,多品種少量生産のネクタイ地や高価格商品の正絹着尺・男物に生産の比重を移し,正絹服地に活路を見い出そうとしているものの,織物業の中心をなす機屋の経営は困難を極めている(参70).(図8.3.25 八王子織物の戦後の生産変化)
それに比べて,関連産業は,新しく八王子に発達したメリヤス業(主として横編,178軒)や都内のメリヤス,あるいは郡内その他の織物産地の仕事を得て存続し,全般的衰退傾向のなかにあっても比較的多く存在している.1979年の浸染業は55軒,捺染業は41軒,整理業は10軒であるが,アウトサイダーを入れるともっと数が増え(合計約180軒),織物業の盛時をしのぐありさまである.撚糸業も144軒で5年前の178軒とあまり変わらず,紋切業は80軒から61軒になり,張糸業は46軒から34軒になり,整経業の17軒や仕上げ業の50軒は微増していると思われる.また,機屋と問屋をつなぐ買継商も八王子に約30社あり,不動産や総合衣料に多角化したものが多いとはいえ,あまり数の変化はない.