3.4 下流地域の工業
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3.4.3 川崎市内陸部の工業

 川崎市の内陸部の工業の特色は電機工業であり,川崎区を除く4区ともに電機工業が工場数・従業員数・出荷額のそれぞれ第1位を占めている.このような傾向の始まりは,川崎駅の西口へ1909年に立地した東芝堀川町工場であり,昭和10年代に入って戦争経済が進行するなかで,南武線沿いに内陸部へ展開していった.1936年に尻手町の近くに東芝柳町工場,向河原に日本電気が立地したのをはじめとして,1937年には矢向に東洋通信・古河鋳造,中原に富士通,1939年には鹿島田に東芝タンガロイ,1940年には日立製作所,溝口の日本光学,1941年には津田山のビクターオート,久地の帝国臓器,宿河原の日本安全硝子,登戸の昭和エーテルと立地展開した.これらの工場はいずれも通勤や原料輸送の便から駅並工場として発達し,時代とともに多摩川をさかのぼり,多摩川をさかのぼるに従って電機以外の工場も立地していくことが特色であった.

 しかし,戦前の特に武蔵小杉以西は純農村地帯であり,中原の川崎市編入が1933年,高津が1937年,稲田・向ケ丘等が1938年,柿生・岡上が1939年とはいえ,農村地帯に点在する大規模軍需工場の立地は,京浜工業地帯から疎開する意義が大きかった.そして,この内陸部にも工場が連続的に立地して工業地域の景観を呈していくのは,戦後,軍需産業が平和産業に転換し,経済の高度成長期になって京浜工業地帯の拡延が再開してからである.川崎へは横浜からあるいは阪神工業地帯から移動してきた工場もあるが,圧倒的多数は芝・品川・大森などから立地移動してきた工場であり,1952年の調査によれば53%,1962年の調査によれば40%の工場が東京から移動してきたものである(参82).これらの移動工場の多くは内陸部の旧軍需工場跡地や,川崎・府中街道に沿って立地し,電機や自動車の工場が多かったが,サントリー(1958年)や武田食品(1959年)などの大規模食品工場も立地するようになった.軍需工場の跡地転換としては,1940年に溝口へ立地した日本光学の跡地が最も大きく,1947年ごろから約17機関に分割され,ここに八欧電機は1955年,日本電気は1959年,東芝は1960年,それぞれ1工場を確保した(参83).(図8.3.29 1945年までに立地した工場分布

 こうして川崎市の工業分布は相対的に内陸部の比重を増したが,昭和40年代になって臨海部の公害発生が著しく,工場環境としても悪化するようになると,川崎区の大規模工場がさらに相模原や湘南方面へ移動していくようになり,いっそう内陸部の工業生産の比重が増大した.1963年の内陸4区(幸・中原・高津・多摩)の工場数は全市の59.0%.従業者数は47.4%,出荷額は31.4%であったが,1973年にはそれぞれ71.7%,59.8%,43.3%となり,1979年には74.6%,60.6%,35.9%になった.

 この間,川崎区の工場比率は連続的に減少を続け,幸区も減少しているが,中原区は停滞的であり,逆に高津区の工場比率は増加し続け,1970年には幸区,1974年には中原区,1977年には川崎区の工場数を上回って市内第1の工場集積地域になった.高津区は溝口を中心とする区で,1940年の日本光学・日本通信の立地に始まり,特に戦後,日本光学の跡地立地によって発展したが,さらに関連部品工場の市内及び城南地区からの立地移動が進んで,工場数は増えたが,従業者数や出荷額はその割りに伸びず,多摩区に次いで小規模工場の集積地域となり(1工場平均従業員22.2人,全市平均31.5人,川崎区は48.8人,多摩区は13.5人),下請部品工業の地域的集積は城南地区と同様の構造になってきている.(図8.3.30 川崎市の全工場数と区別比率の変化

 これに対して,中原区はやや大規模な機械組立工場の集積地域(1工場平均従業員32.8人),幸区は中間地域で,多摩区は京浜工業地帯の核心部から最も遠く,小田急線に沿って住宅地化が進み,最も工業の発達していない地域になっている.それでも多摩区の第1位工業はやはり電機であり,出荷額からみれば次いで機械・土石・繊維・紙パルプの順になっている.一方,高津区は道路が東京の都心部と便利に結ばれており,第1位の電機工業に次いで食品工業の生産が多く,第3位が機械,中原区でも第1位電機,第2位輸送機に次いで第3位に食品工業が多くなっている.



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