4.4 下流地域のレクリエーション地
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4.4 下流地域のレクリエーション地

4.4.1 多摩川梨の観光農園と農業見本園

 多摩川下流右岸,稲城市から川崎市北部にかけては,いわゆる多摩川梨の産地であり,観光農園も多くて収穫期には梨狩りの客が集まる.小田急電鉄が開通した翌年の1928年(昭和3)に電鉄側とタイアップして梨もぎとり園が開業したといわれ(参103),観光農園としては古い歴史を有する.しかし,現在,住宅地化が著しく梨園は次第に減少しつつある.第二次世界大戦前の1939年(昭和14)に,川崎市の梨園面積は230haでピークに達したが,その後食糧増産で水田への転換を余儀なくされ,戦後再び梨の果樹園が再興されて1963年(昭和38)に125haとなったものの,再び減少傾向を示し始め,1980年(昭和55)では79haにすぎなくなった(参104).

 産地が都市近郊に位置するために,多摩川梨の販売形態は産地直売方式をとっており,1976年(昭和51)で97%を占めている.出荷量1,416tのうち観光もぎとり販売が46.4%を示し,沿道での直売などが51.7%であった.1956年(昭和31)ごろから10年以上も続いた梨の市場価格の低迷に対処すべく,また,労力軽減と流通経費を節約して収益を増やす工夫として,レクリエーション需要が増大しているなかで,観光販売への道が求められ普及したのである.例えば,赤梨(長十郎)1kg当たりのもぎとり価格と横浜中央卸売市場での価格を比較してみると,1957年(昭和32)にはそれぞれ45円,34円,1967年(昭和42)では60円,34円,1977年(昭和52)では220円,105円となっていて,もぎとり価格の上昇が著しく両者の格差が大きくなっている.青梨(20世紀)も赤梨ほどではないにしても,もぎとり価格のほうが高い.しかし,一方で組合への宣伝費やバス会社の斡旋料など各種の経費もかかっている.

 1970年(昭和45)には多摩川梨もぎとり組合連合会に360戸の農家が入っており,約60万人のレクリエーション客を吸収したが(参105),1976年(昭和51)では観光農業経営農家数は214戸へ減っており,後継者もほとんどいない現状では,都市化の流れに抗して観光園を続けられる農家は徐々に少なくなるであろう.そこで川崎市当局は,緑地保全と農市民のレクリエーションの場の確保との目的から,高津区・多摩地区の4個所に4haの市民果樹園を指定し,その助成を行っている(参106).

 梨の観光農園の他,多摩農協では28戸の農家が労働力不足を解消し,地域住民との接触を密にするうえからもイチゴのうね売りをしており,すでに190aが実施されている.また,1973年(昭和48)から1979年(昭和54)にかけて,市の事業として,多摩川沿岸地域と4個所の市民農園が開かれ,レジャー農園として550区画が貸し付けられている.

 川崎市当局は市内果樹農家のために,試験研究と技術指導・新品種の育苗などを行って農業経営にプラスとするとともに,一般市民にとっては憩いの場となり,青少年の自然観察にも役立てようと,1972年(昭和47)12月にフルーツ・パークを開園した(参107).この果樹見本園は当初,果樹試験場として設置されたものであったが,近年における近隣レクリエーション需要の増大に合わせて公園化したのであった.2haの敷地に梨園をはじめ,クリ・モモ・カキ・ブドウ・ウメ・スモモ・ミカンなど各種の果樹を配し,マンゴー・パパイヤなどの熱帯果樹温室や花壇も整備されている.1980年(昭和55)には大人2.7万人,子供3.4万人の計6.1万人が入園し,特に子供の利用が多いことは,生きた教材に触れられる体験学習の場として,教育上にも大きな意義を有する.

 同様に,園芸技術普及農場であった宿河原農園を市民に開放し,花卉や植木について理解を得るために,1979年(昭和54)8月に川崎市緑化センターが発足した.1.3haの土地にツバキ・ツツジ見本園,生垣見本園,植物見本園,苗圃,和風・洋風の見本庭園,温室,広場などがあり,緑の相談所を常設したり緑の教室を開催して,市民の参加を呼びかけている.1980年(昭和55)には4.5万人の入場者があり,相談件数も600に達した.



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