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(1) 山岳・渓谷地域
本地域は,多摩川の水源地帯である一之瀬川及び柳沢川流域(山梨県塩山市)から丹波川の深い峡谷部(山梨県北都留郡丹波山村)を経て多摩川本流を東京都西多摩郡奥多摩町から青梅市西部に至る流域である.この地域の集落は,河谷下部斜面,中腹斜面及び尾根部に立地するものが多い(参1).
@ 塩山市
多摩川の水源地帯の柳沢川の最上流(柳沢峠北麓,青梅街道沿い)の河谷部にある集落御屋敷は,海抜1,200〜1,260m(以下,高度については「海抜」の文字を省略)の高所にあり,さらに落合・藤尾・高橋などの小集落が続いている.同じく水源地帯の一之瀬川上流の高原状の地形をなす1,150〜1,200mの高地に一之瀬・二之瀬の集落があり,ともに多摩川流域では最高所に位置する高冷地である(図8.4.1).柳沢川及び一之瀬川流域一帯は両沢と称し,大部分が東京都の所有する水源涵養林である.したがって林業労働,自給的農業(雑穀・いも類・豆類・野菜など)を行ってはいるが,土地制度が著しく住民の経済活動を制約している(参2).一之瀬と高橋は,中世武田時代に盛大であった黒川金山の金掘師の一部が,江戸時代に廃山となってから定着したものといわれている.金山最盛期には黒川千軒といって繁栄したという.交通は現在でも極めて不便で,一之瀬・高橋への定期バスはない.
A 丹波山村
丹波山村は,林野率(1980年,(林野面積/村の総土地面積)×100,以下同様)が97%という典型的な山村である.しかし,山林の70%は東京都の水源涵養林であるため,林業は盛んでない.この村の集落は,一之瀬川と柳沢川が合流して丹波川となって,ほぼ東西性流路をとる深い峡谷沿いにある.谷が東西性のため,斜面は南向の日向側と北向の日蔭側となり,両斜面の日照・日射の差が著しく,住民の生活や土地利用にも大きな影響を及ぼしている(参3).甲斐国誌によれば「深谷ノ間ニ家居スル故ニ朝ニ日ノ出ル遅ク,暮ニ日ノ入ルコト早シ.故ニ諸作ノ稔リ悪ク,又常ニ霧深ケレバ焼畠ヲ作ル.凡テ水田ナシ」とある.
集落は上流から奥秋(600〜700m)・丹波・押垣外(おしかいと)・保之瀬(ほのせ)などがあり,いずれも河道沿いの狭い小段丘面に立地している.集落の規模は小さく(表8.4.1),1戸当たりの宅地も狭く,一般に密集村の形態をとっている.中心集落の丹波は比較的規模の大きい集落といえる.丹波山村は,甲斐武田氏の全盛時にここに奉行が置かれ,金鉱の採掘を行ったという.当時は丹波千軒と称せられるほどの大部落があったと伝えられている.また,丹波の集落は,近世〜明治前期には甲州裏街道(現青梅街道)の宿場として栄えたが,現在はその機能はない.
丹波山村の耕地は,集落背後の南向きの日向斜面に多いが,日向斜面に耕地が多く得られない場合は,半日蔭の北向き斜面も耕地として利用されている点は奥秩父山地の場合と共通している(参4).しかし,農家(90%が第2種兼業)の1戸当たりの耕地面積は17.9aと狭小である(1980年).奥多摩町と東京都との境を流れる小袖川右岸の斜面には小袖(約800m),丹波川左岸の急斜面に所畑(約700m)などの小集落があるが,いずれも近年人口減少が著しい.所畑については,上野福男によって1949年(昭和24)当時の斜面の詳細な土地利用図(麦・こんにゃく中心の時代)が作成されている(参5).
奥多摩湖畔の鴨沢は,小河内ダム建設によって水没した丹波山村唯一の集落である.ここは,かつては丹波山村からの木炭と,下流から上ってきた米・みそ・しょう油・雑貨などの交換地であった(参6).丹波山村は,木炭・まゆ・こんにゃくが長い間主要現金収入源であった.産業別にみると第1次産業に従事する者が半数を占めていたが,現在は第2次産業に従事する者が半数を占めるようになった(表8.4.2).これは農林業の衰退,特に製炭の消滅によるところが大きい.第3次産業は,都内への通勤者と村内18軒の民宿などに従事する者が増加したことによる.第2次産業関係では建設業のほか,村内の弱電機や自動車の部品などの工場へ勤める者などが含まれている.
B 奥多摩町
奥多摩町の林野率は93%で,性格的には一部の集落を除いて典型的な山村といってよい.奥多摩町の集落は,奥多摩湖岸の湖畔集落と多摩川の本流及び支谷の斜面と段丘面及び尾根筋に立地するものに大別できる.湖畔集落には,西から小留浦(ことづら)・川野・麦山・熱海(あたみ)などがあり(図8.4.2),いずれも奥多摩湖北岸に偏在立地している点に特色がある.かつてこの湖底には,多摩川の河道に沿って集落が立地していたが,いずれも小河内ダム建設によって水没した.水没した集落と戸数は次のとおりである(奥多摩郷土資料館資料による).( )内は水没戸数.
熱海(36),原・出野(39),湯場(41),河内(85),入間(5),麦山(5),本田(9),大津久(12),川野(47),小留浦(31),留浦(とづら)(56),川崎(6),南(24),岫沢(くきさわ)(23)など.
現在の湖畔の留浦・小留浦・川野・峰谷・熱海の各集落は,いずれも小河内ダムが完工した1957年(昭和32)11月以後,新しく形成されたものである.湖畔の新集落設立に加わった水没集落と戸数については桝田一二の調査(参7)がある.この調査結果(表8.4.3)によると,参加の部落数においても,また戸数においても最も多い構成員から成るのは熱海である.次いで参加部落数では留浦で,戸数では峰谷であり,小留浦が最小である.新集落のうち,熱海は山脚が湖中に突出して半島状の地形をした眺望の優れた所で,水没前に鉱泉で知られた「鶴の湯」があり,静かな湯治場であった.現在,ホテル・旅館・温泉神社などがあり,観光集落的な色彩が濃い.また,川野はトンネル出口付近の平坦地に大駐車場があり,旅館・休憩所・みやげ物店,永久橋,深山橋などもあって,ここも観光集落といえよう.
奥多摩湖のダムサイトから下流の多摩川沿いの河岸に近い集落である境・檜村・小留浦・登計(とけ)・中野・下野・坂下・丹三郎などは,いずれも河岸段丘の小平坦面上に立地している.多摩川と日原(にっぱら)川の合流点に立地する大氷川は,旧氷川町の中心で,現在,奥多摩地域の中核をなす最大の集落である.ここに奥多摩町の役場や国鉄青梅線の終点奥多摩駅があり,奥多摩湖・丹波山村・小菅村・日原などへのバスの始発地でもある.各種の商店も多い.
河岸段丘面ないし河道から遠ざかっている上部は山つきの傾斜面となっており,平坦地に乏しいため,前面に石垣を築いた人工の階段状の地形(人工段丘)を作った小規模な宅地が多い.家屋はその上に建てられている場合が多く,内田寛一はこれを舞台式建築と呼んでいる(参8).青梅線白丸(しろまる)駅西側の白丸や,鳩(はと)の巣(す)駅北部の棚沢などの集落は,比較的広い斜面に立地した集落の典型で,白丸では約350〜470m,棚沢(図8.4.3)では約310〜400mの高度の範囲に家屋が階段状に建てられている.
奥多摩町では,大氷川西方の三ノ木戸(740m)・城(730m)・峰畑(600m)など尾根筋にも小集落が点在しているが,後述するように,ここでは人口減少が著しく,すでに消滅あるいは消滅寸前の集落もある.
奥多摩町の農家は92%が農業を従とした第2種兼業農家で(1980年),農業集落は農家よりも非農家の占める比率が84%と極めて高いのが特色である.この町は,かつては木炭生産が盛んで,ほとんどの集落で行われ,まゆとともに住民の主要現金収入源であった.製炭最盛期は,旧氷川町では1951年(昭和26)ごろで,生産量は約10万俵(15kg俵),旧小河内村と旧古里(こり)村では1940年(昭和15)ごろで,生産量は約4〜5万俵(15kg俵)であった(参9).このため大氷川の集落は木炭の取引でにぎわったという(参10).
C 青梅市
青梅市域内の旧吉野村・旧三田村地区の集落は,多摩川の渓谷に沿う右岸の河岸段丘面に多く立地し,特に上流側から柚木町・梅郷・和田町・畑中などは,かなり広い平坦面から山麓線まで吉野街道を中心に集落が展開しているが,梅林もまだ残されている(図8.4.4).しかし,近年の住宅地化は著しいものがある.
青梅線御嶽(みたけ)駅から神路橋に至る間は,御岳登山の麓町を形成し,旅館・飲食店・みやげ物店などが軒を連ね,観光集落的色彩が濃い.武蔵御岳(むさしみたけ)神社(929m)のある御岳山の集落は800〜900mの山上にあり(図8.4.5),中世以降,関東における山伏信仰の中心地であった.
ここには御岳神社参詣の講中を宿泊させる35坊の御師(おし)家の集団地域があり(参11),旅館・民宿・食堂・みやげ物店などもあって門前集落をなすが,観光集落的色彩も濃い.
(2) 谷口・扇状地
青梅市の中心市街地は,多摩川の渓谷が武蔵野台地に流れ出る位置にある典型的な谷口集落である.
ここは前面の武蔵野台地と,後背地の奥多摩との結節点に当たり,古くは青梅街道の宿場町として,青梅縞取引の市場町として,また御岳神社参詣の前進門前町として,青梅線開通(1929年,御嶽まで延長運転開始)のころまで繁栄した.当時,街道筋の商店街には,飲食店・木炭商・穀屋・酒屋・古物商など多数の店が軒を並べていた(参12).中心市街地は多摩川の上位の河岸段丘面に立地しているが,近年は下位の段丘面の住宅地化が著しい.
青梅扇状地は,長い間,集落は加治丘陵の南東麓と,草花丘陵の北東麓に沿う地域及び多摩川の河岸段丘面にみられるほかは,扇央部はほとんど皆無といってよく,わずかに新町の新田集落(参13)がみられるのみで,一面畑(第二次大戦前は桑園)であった(図8.4.6).1970年(昭和45)代に入って,青梅市の人口増加や東京西郊の都市化の西進に伴って,新しい住宅が扇央部に進出し始めた.図8.4.7でも明らかなように,東青梅・河辺(かべ)町・野上町・末広町などの新集落が短期間に形成されたのである.扇状地の等高線に沿う曲線状の新しい道路にも新興住宅地らしさが表れている.また,加治丘陵南東麓沿いの地区も住宅地が増加しており,特に師岡(もろおか)・大門・塩船・木野下・今井などが顕著である.これらの地区の集落は,旧来の加治丘陵南東麓沿いから丘陵内部や上方,扇状地面へ住宅地が拡大しつつある.
図8.4.6(1937年修正測図,1957年応急修正)と図8.4.7(1977年編集,1980年修正)と対比すると,約30年間の土地利用の変化や集落の拡大などが明瞭である.現在では,地形図上で扇状地の地形を判読するのは困難な状況となっている.谷口・扇状地の地域の人口推移については後述する.