1.2 行政区と人口の推移
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1.2.4 人口減少地域の人口推移

(1) 地区(集落)別人口減少の状況

 すでに指摘したように,多摩川上流域のうちでも特に奥地に位置する塩山市(一之瀬・高橋)・丹波山村・小菅村・檜原村では,最近20年間,続いて人口が減少している(表8.4.4図8.4.9).この人口減少の状況を町村単位に地区(集落)別にみたのが図8.4.10(丹波山村・小菅村),図8.4.11(奥多摩町),図8.4.12(檜原村)である.各図とも住民基本台帳による1970年(昭和45)1月の各地区の人口を100として,1980年(昭和55)の人口の指数を求めて図示したものである.本稿中の人口指数の表記の方法は,すでに(1)青梅市の個所で述べたものと同一である.

@ 塩山市

 多摩川水源地帯の塩山市一之瀬・高橋は,102世帯470人から80世帯269人に激減し,指数は57.2である(図8.4.10).

A 丹波山村

 奥多摩湖より上流の丹波川の峡谷に沿う丹波山村の場合(図8.4.10),人口が増加したのは村役場付近の押垣外(111.1)だけであるが,30世帯117人から35世帯130人に増加した程度のものである.他の集落はすべて人口減少である.中でも保之瀬上(43.1)と所畑(47.2)の両集落の減少が著しく,前者は15世帯58人から10世帯25人へ,後者は24世帯123人から20世帯58人と減少している.

B 小菅村

 多摩川上流の支流小菅川の渓谷に沿う小菅村の場合(図8.4.10)は,人口が増加した集落は皆無で,ほとんど全部の集落が80〜90台である.最も減少が著しいのは東部(余沢・金風呂・大成)で79.3である.大丹波峠南西部の今川(970m)は,約10年前に消滅した.

C 奥多摩町

 奥多摩町(図8.4.11)で人口が増加した集落は丹三郎(129.2)と小丹波(101.9)の両集落だけで,ともに青梅市の中心街に比較的近い青梅沿線にある.他の集落はすべて人口減少を示し,60〜80の指数を示すところが大部分である.旧古里村は,やや増加ないし横ばいのところが多いが,旧氷川町と旧小河内村では人口減少が著しい.特に旧氷川町では,日原川の渓谷にある日原(57.5)と大沢(58.2),旧小河内村では峰谷(55.7)の減少が目立っている.具体的な数字をあげると,日原は214世帯856人から140世帯492人,大沢は71世帯297人から49世帯173人,峰谷は116世帯576人から90世帯321人へといずれも大幅な減少である.ちなみに,奥多摩町役場には1960年(昭和35)の集落別人口統計が保存されているので,これによると日原は175世帯978人,大沢は114世帯515人,峰谷は186世帯774人で,20年前と現在と比較するとほぼ半減している.

 奥多摩町内で,既存の集落が無住状態となって消滅したところに入川谷上流の峰(600m),日原川流域の峰畑(550〜600m),川野北部のくな(800〜850m)などがある(図8.4.11).峰は以前7戸あったが,2〜3年以前より無住状態となり,峰畑は以前5戸あったが,昭和40年代に入って人口流出が始まり,現在無住化した.くなは以前4戸あったが,10年ぐらい前より人口流出が始まり,現在無住となった.ほかに無住にはなっていないが,現在数戸だけ居住しているという三ノ木戸・城・黒指・細久保・栃寄などの小集落が点在している.これらの集落の多くは多摩川と日原川の中間にある尾根筋に比較的多く分布し,交通不便なへき遠の地である.

D 青梅市

 すでに述べた都市化の著しい青梅市でも,西端の御岳本町(青梅線御嶽訳北部),御岳1丁目(同駅南部),御岳2丁目(大沢川沿い)と御岳山(図8.4.5図8.4.11)ではいずれも人口が減少(指数各80台)している.また,古くからの中心街の青海や西分町が減少していることはすでに指摘した.

E 檜原村

 檜原村(図8.4.12)で人口増がみられるのは南秋川の数馬上(107.4)だけで,他の集落はすべて人口減少である.数馬上も人口が136人から146人と10人増加したにすぎない.図8.4.11でも明らかなように,ほとんどの集落が指数80〜90である.人口減少が特に著しいのは北秋川流域の集落で,中でも倉掛・日向平・尾根通・湯久保・時坂などで,いずれも40〜50の指数を示し,ほぼ最近10年間に人口が半減している.南秋川流域でこのように人口減少が著しいのは数馬下(56.6)だけである.人口減少がきわだって著しい湯久保(42.9)と尾根通(52.9)は,ともに約600mの尾根筋に立地するへき地集落である.湯久保は20世帯119人から20世帯51人,尾根通は12世帯51人から9世帯27人へと減少している.

 檜原村役場では,1963年(昭和38)以降から1980年(昭和55)までの間の一家離村動態調(従来より村に住んでいた家の離村)を行っているが,これによると合計80世帯が一家離村をしている.このうち,1963年以前の離村世帯は15,昭和40年代が45世帯,昭和50年代19世帯である.離村世帯が多い集落は,時坂・湯久保・倉掛など北秋川筋である.

F 五日市町

 すでに述べたとおり,五日市町の中心街や東部地区は住宅地化が著しく人口増加がみられるが,西部の旧戸倉村・旧小宮村の山間部では人口が減少している.特に盆堀川と養沢川の渓谷沿いの集落はすべて人口減少で,指数は80〜90である.

(2) 年齢別人口構成

 多摩川上流地域(東京都側)の市町村別の幼年人口(0〜14歳)・生産年齢人口(15〜64歳)・老年人口(65歳以上)の年齢3区分を,1961年(昭和36)1月と1980年(昭和55)1月の場合について示したのが表8.4.5で,年齢階級別人口(総数を100とする年齢別割合)を図示したのが図8.4.13である.表8.4.5によると,年齢別人口構成は,時期的にも,地域的にも1961年と1980年の20年間に大きく変わっていることがわかる.すなわち,幼年人口は1961年の場合は,全市町村とも都平均23.9%を上回っていたが,1980年には檜原村と奥多摩町はともに19.5%で,都平均の21.3%を下回るようになり,生産年齢人口は1961・1980両年とも全市町村が都平均を下回っている.また,老年人口は,1961・1980両年とも全市町村が都平均を上回っている.しかし,五日市町・檜原村・奥多摩町の山地地域が,1961年と比較すると1980年は老年人口の占める割合がかなり高くなって10%を超え(都平均は7.6%)ているのが注目される.特に奥多摩町では1961年の5.5%から1980年には12.7%へ,檜原村では8.5%から15.2%へと上昇し,高齢化の進行が著しいことを示している.このような状況は図8.4.13にもよく表れている.

(3) 児童・生徒数の減少

 表8.4.5でも明らかなように,幼年人口の減少が著しいのは檜原村と奥多摩町である.檜原村の1961年(昭和36)の幼年人口は2,167人であったが,1980年(昭和55)には859人,奥多摩町では同じく4,819人が1,984人とともに約40%に激減している.この現象は小学校児童数,中学校生徒数にも反映している.檜原村の場合,1965年(昭和40)に小学校在校生804名(小学校8校),中学校在校生471名(中学校3校)であったが,以後,年々減少の一途をたどり,1981年(昭和56)には小学校在校生346名,中学校在校生226名と激減しており(図8.4.14),このまま推移すると1987年(昭和62)には小学校在校生229名,中学校在校生153名となると推算されている(檜原村資料による).村内の小学校8校のうち,特に児童数の減少が著しいのは,北秋川最奥の藤倉小学校で,1965年(昭和40)には86名であったが,1981年(昭和56)には11名となった.また,南秋川最奥の数馬小学校の場合は,1965年には58名であったが,1981年には19名となっている.

 奥多摩町では,1955年(昭和30)当時,小学校本校が3校,分校が9校あり,児童数2,109名を数え,最も在校生が多かったのは1959年(昭和34)の2,338名であった.以後,在校生は減少し続け(図8.4.14),学校の統廃合が進み,1981年(昭和56)には小学校4,分校1,児童数822名となった.中学校生徒も1955年当時1,091名であったが,1981年には407名と減少している.奥多摩町内でも特に児童数の減少が著しいのは,小河内・日原両小学校と古里小学校大丹波分校などのへき地校で,1961年と1981年の児童数を対比すると,それぞれ243名→52名,110名→50名,51名→25名(奥多摩町教育委員会資料による)と著しく減少している.以上のような小・中学校の児童・生徒数の激減は,すでに述べた住民の高齢化とともに奥多摩地域の将来にとって大きな問題となっている.



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1.2 行政区と人口の推移