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都市で離心的傾向をもつものの1つに学校がある.義務教育,またはこれに準ずる学校は,通学圏の関係から,都市内に普遍的に分布する必要があるが,大学などの学園は,広い敷地と静かな環境を求めて,遠心的に移動する傾向をもち,また新設の学園は郊外地に建てられることが多い.こうして文教地域も次第に外方へ進出するようになった.
東京における文教地域の発展をみると,初めはやはり都心にかなり近いところに成立した.千代田区の神田地区は,初期に大学・専門学校の集団化した所で,それに続いて文京区の本郷・小石川地区に学校が多くできた.住宅地の西進に伴って目黒・世田谷方面へ進出するようになり,さらに郊外の武蔵野へ遠心的移動を起こすものが現れた.
武蔵野地域に現在ある大学をひろってみても,武蔵野市の成蹊大・日本獣医畜産大・武蔵野美術大・亜細亜大,三鷹市の国際基督教大・東京神学大,小金井市の東京学芸大・東京農工大工学部・法政大工学部,小平市の津田塾大・一橋大分校,府中市の東京農工大農学部,調布市の電気通信大・桐朋学園大・白百合女子大,田無市の明治薬大,国立市の一橋大・国立音楽大・東京女子体育大,国分寺市の東京経済大,保谷市の武蔵野女子大などがある.
このように学園が郊外へ進出する場合には,住宅地の発展に先んじて田園の地に広い敷地をとり,これを中心として学園町を形成することがあり,むしろ学園の建設が動機となって住宅地の発展を促すことが多い,このような学園町の一例として,国立市について述べてみよう.
国立市は武蔵野台地の南西部に位置し,おおむね多摩川の河成段丘上にある.段丘は2段に分かれ,下段上には旧甲州街道が走り,これに沿って旧谷保(やほ)の農村が街村をなしていた.これに対し,上段は緩やかな起伏と傾斜をもって続く,ローム層の割合厚い,地下水の深い洪積台地である.かつて,その大部分は赤松を主とする雑木林で覆われ,谷保村の「ヤマ」と呼ばれ,薪炭・採草地となっていた.
この土地を1925年(大正14),箱根土地会社が注目,東京商科大学が神田一橋からここへ移転することが決定すると,ベルン郊外をモデルとして学園都市計画を立てた.そして土地を買収し,中央部から南へ向かって放射状の三大道路を中心に,東西数10条の道路網によって区画した.この新しい町は,国分寺と立川の中間に位置するので,両方から一字ずつとって,国立と名づけられた.翌年,中央線国立駅が開設され,東京商科大学(現在の一橋大学)・私立音楽院(現在の国立音楽大学)・私立国立学園小学校が建ち,その後順次多数の学校が建設され,これを取り巻く住宅地も発展していった.このようにして,旧農村と新住宅地とが地域的に分かれて発達したのである.
箱根土地会社が開発した土地は約330万m2(100万坪)で,これを大体660m2(200坪)を単位として区画分譲した.分譲は1927年ごろから1941年ごろまで続き,駅の北側はこれより遅れて,1935年ごろから売り出された.しかし,当時国立は都心への交通もまだ不便であり,東京における住宅地の発展も,中野・杉並両区から吉祥寺(武蔵野市)あたりまでで,国立には及んでいなかった.一方,学園の職員は中央線の便で旧住宅地から楽に通勤できるため,居を移す人は少なく,宅地は長く空地のまま残され,住宅の建設はあまり進まなかった.開発初期の住宅は14戸にすぎなかったといわれ,また1928年9月,国立学園町の居住者を中心に作られた国立会の会員数はわずか40名で,しかもその中には国立に住まない学園勤務者も若干入っていたから,極めて寂しい町であった.(図8.4.21 開発当時の国立の地割−国立分譲地区画図(1927年)の一部−)
ところが,東京の発展につれて1940年ごろから人口が増加し始め,特に第二次世界大戦後,東京の住宅地が払底し,郊外の伸長が著しくなったため,国立における住宅の建設,人口の流入は極めてめざましくなった.しかし戦後の流入者は,学園町成立当時と異なり,一般中流階級であって,経済上の理由から小面積の宅地を望んだため,土地は細分されて,旧区画はかなりの変化を受けるようになった.さらに都営住宅や住宅公団の集団住宅も建設され,急激に住宅化したのである.
国立は学園を核として発達した都市であるが,学園の職員や学生のうち,国立市に居住するものはそれほど多くない.例えば一橋大学の職員でも,市内よりは区部や中央線沿線の他の市から来るものがはるかに多い.同大学の学生も国立市以外から通学するものが圧倒的である.一方,国立の居住者の勤務先をみると,区部や立川などが多く,国立に勤務地をもつものは少ない.すなわち,国立は学園があり,文教地区となっていることによって,環境のよい郊外住宅地として発展しているのであって,学園自体が都市機能として都市を存続させているのではない.それは都市機能としての教育施設が,商工業などと異なる性格をもつためであろう.(図8.4.22 国立市の地域構造)
国立と同じように,学園を中心として発展した町は,東京近郊でも他にもいくつかあげられる.小平市の小平学園町,世田谷区の成城学園町,東久留米市の南沢学園町,練馬区の大泉学園町などがその例である.
国立と同時に,同じ土地会社によって開発された小平学園町は,東京商科大学予科(現在,一橋大学分校)と,麹町から移転した津田塾(現在,同大学)とを中心としたものである.しかしここは学園の移動も住宅の発展も国立に遅れた.それはおそらく,中央線国分寺駅から支線という交通の不便も問題になったであろう.しかしこの市も戦後住宅の建設が著しく,特に都営住宅などの集団住宅が多く,現在は一般住宅地の色彩が強い.
以上のように国立や小平は,イギリスのケンブリッジやオックスフォードなどのように学園に依存して成立する純粋の学園都市というよりも,学園の建設を契機として成立した住宅地であるといえよう.