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八王子盆地は多摩丘陵北部と加住丘陵南部との間にある,標高100m前後の浅く低平な沖積層から成る小盆地である.北浅川と南浅川が西端で合流し,浅川となって盆地北部を東流し,多摩川に注ぐ.盆地内は砂礫が厚く堆積し,浅川の水は地下に浸透して伏流水となり,水無川の景観を呈している.このため盆地内は水利が悪く,水田は少ない.現在,盆地の中心は市街地となっているが,かつては桑畑が卓越していた.これをもとに,養蚕・製糸・絹織物業が発達するようになった.
八王子の起源は周辺の丘陵から始まる.戦国時代には加住丘陵の滝山城を中心にハ幡・八日市・横山の諸部落が4と8の日に市を開いていた.のちに城が元八王子に移ると市も同時に移転した.1590年(天正18)ここが落城すると,住民は浅川右岸の段丘上に移転させられた.これが現在の八王子の母胎となった.今日でも市内には,横山・八日・八幡などの町名が残っている.江戸時代には甲州街道の宿場町として交通上重視されただけでなく,市が栄えて商業的にもこの地域の中心であった.
八王子は古くから「桑都」といわれ,養蚕・製糸や家内工業的な絹織物業が行われてきた.南浅川・北浅川が盆地に入って砂礫の中を伏流し,市街の北辺で再び湧水する.この清浄で豊富な水が製糸や染色の用水として工業立地上の大きな要因となった.しかし八王子の機業が本格的に発展するのは明治以後,外国貿易が始まってからである.横浜線の開通によって貿易港横浜と密接に結びつき,八高線は他の機業地との連絡を便利にした.1935年ごろ八王子の総生産額の90%以上は,工業特に織物工業に依存していた.
第二次大戦後も織物な八王子の基幹産業である.しかし製品は絹からウール地に中心が移った,また,ネクタイ,マフラーなどの洋装雑貨も多い.織物工場は中小規模のものが多く,複雑な分業組織のもとに生産が行われている.
他方第二次大戦後は機械・化学工業の進出も著しく,機業単一都市から総合的な工業都市へ移りつつある.電気機械器具・光学機械・輸送機械など,大規模な工場は高尾よりの田園地区に集団立地するものと,市街の東北方日野市との境に造成された工業団地に立地するものとがある.後者は中央線・八高線・甲州街道などの便に恵まれ,また中央高速道路のインターチェンジにも近く,トラック輸送によって京浜地方と直結できることが,大きな強味となっている.
八王子は商業都市として都下第一を誇っている.そこで商業核を主として中心部の構造とその変化をみよう(参37).
八王子市役所で作成した1/3,000土地利用図をみると,商業地域は甲州街道沿いから八王子駅にかけてが中心であり,その背後は住宅・商業・準工業地域が混在している.中央線以南はおおむね住宅地である.また駅に近い東町付近は事務所が多い.
八王子は古くから商業が発達し,それらはおおむね甲州街道沿いの八日町,横山町,八幡町などが核となっている.しかし,その後,八王子駅前に商業が盛んとなり,これと八日町を結ぶ旭町通りなどに商業地域が拡大するようになった.
近年における都市の商業機能に大きな役割を果たしているものに大型店(ビッグストア,大規模小売店)の進出があり,その立地と移動は商店街全体に重大な影響を及ぼす.八王子においても昭和20年代からスーパー店ができ,その後地元百貨店が甲州街道沿いに造られた.次いで東京の百貨店が進出するようになり,それらは駅に近い地域に立地し,街道沿いの地元百貨店は苦境に陥った.大型店の立地年代と移動をみると,1970年以降甲州街道沿いの店が次々と閉店し,駅に近いほうに新しい店ができたり,甲州街道沿いから駅方向への移動が起こっている.こうして商業核全体が駅のある東の方向へ動く傾向を示すに至った.
このように商業核が駅に近く牽引されるのは,八王子がかつて地方都市として独立していた時代は,駅と離れた街道沿いの旧商業核が伝統の強味を発揮したが,八王子が大都市の周辺にある中核都市となるにつれ,東京及び周辺住宅地とのつながりが強くなり,駅を中心とした地域に人の流れが強まったためといえよう.
なお,銀行・信用金庫・信用組合などの金融機関をみても,甲州街道沿いと八王子駅付近に2つの核があり,後者の設立年代が新しい.移動は大型店ほど著しくはない.最近,西八王子駅付近など周辺の核にも銀行の支店などができ始めた.(図8.4.25 八王子の市街地の拡大)