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東京の近郊として早くから都市化の進んだ多摩川下流域の諸都市では,第二次大戦前と戦後に著しい人口増が続いたが,近年その増勢はようやく停滞してきた(図8.4.26).
右岸の川崎市の人口変動をみると,@現市域における1897年(明治30)当時の人口は50,370人であったが,近代工業が成立した1907年(明治40)以来ようやく増加傾向をたどり,市制施行の1924年には10万人を超した.A戦時の軍需工業の発展期(1935〜1943年)には,年平均2.4万人の増加をみて,1943年に39万余のピークに達した.Bしかし,1944年末から人口及び工場の地方への疎開が始まり,1945年の空襲では市街地・工業地の大部分が甚大な被害を蒙り,人口は約18万に激減した.C戦後重化学工業が復興し,かつ住宅地が拡大するに従い,1970年までは再び人口急増傾向をたどった.1974年は100万を突破したが,増加率は次第に低下してきている.1980年国調人口は1,040,698にとどまっている.1975〜1980年の間に南東部の川崎・幸及び中原の3区は,減少区となり,北西部の高津・多摩2区の人口増加が全市の人口増をもたらしている(表8.4.13).次に市の人口動態について,1976〜1980年の平均をみると,@社会動態では転入者が転出者(104,478人)より少ないが,自然動態では出生(16,853人)が死亡より多いために,わずかな人口増を示した.A転入・転出ともに市外との間の移動の割合がそれぞれ82%強に及び,特に転入者は東京から,転出者は県内の場合が多い.また人口構成の特色は,第二次産業就業人口率が減少し,第三次が増大する傾向を示し,年齢別人口は,20歳代19.2%と30歳代19.4%の青年層が全国割合31.9%より高率を保っている(1979年).
世田谷区と大田区の人口は,23区中第1・2位を占めている.1920年国調人口は,世田谷区域が39,952人,大田区域78,522人にすぎなかった.世田谷区の人口は図8.4.26にみるように,順調な伸張を続けてきた.戦災被害も川崎市や大田区の工業地と異なり比較的少なかったから,1945年には著しい減退をみず,戦後はさらに急増を続けた.1966年以来大田区の人口をしのいでいる.1975年80万を超えたが,その後減退傾向に変わってきた.地価の高騰,宅地造成の行詰まり,交通渋滞など,居住環境の変化により転出者が増えてきたためである.次に通勤・通学等による人口流動の実態をみると,すでに1955年夜間人口523,830人のうち,区外への流動人口は141,991(27.1%)を数え,主な流出先は都心部3区(千代田・中央・港)47.3%,副都心2区(新宿・渋谷)へ16.1%であった.都心部で働く通勤者の居住地としての特色が現れている.1960年には夜間人口653,210に対し,昼間人口は522,958人で,流出超過人口は130,252人となり,都内第1位を占めた.その後世田谷区の人口の約1/4は毎日区外へ流出していると見られ,ベッドタウンの性格が認められる.第三次産業就業人口率が71%の高率を占め,青年層(20・30歳代)人口が38.2%に及ぶことも,区の特色といえる(表8.4.13).
大田区の現区域の人口は,戦時に急増し,1942年には60万を超え川崎市や世田谷区よりはるかに多くなった.これが1945年終戦時には約18万に激減した.蒲田区の人口は約1/6に減少したが,これは戦中の疎開と臨海地の大部分が空襲の被害を受けたためである.しかし,戦後再び人口集中をみて,1966年に最高(756,917人)となったが,67年以来減少傾向をたどり,1980年国調で約66万になった.居住条件の変化や工場移転等により,区外に転出する者が増えたことによる現象である.大田区は都市化が早くからしかも急速に進んだので,郊外的景観はほとんど消滅した.1975年夜間人口(69.1万)と昼間人口(68.9万)は大差なく,流出人口と流入人口とがそれぞれ17万余でほぼ見合い,流出人口の多い世田谷区とは異なる特徴がみられる.大田区域は蒲田地区の工業地と大森地区の住宅地の発達に特色があるが,人口流動は区内で需給が完結するのでなく,流入人口の62.8%は神奈川県等の他県から,流出の80.4%は都内他区への通勤・通学者等である.産業別人口構成は第二次産業人口の比重が世田谷区と比べて高いが,その率が低下(1970年47.5%,1975年41%)している傾向は川崎の場合と類似している.
調布市の市域は,第二次大戦時までは人口2万以下の町であったが,1960年代に急激な人口増加をみて,1960年6.8万人から1970年に15.7万になった.住宅地化が進んだためである.人口増加の最大の年は1965年で,前年比4.9万人が増加した.都内からの転入者は1960〜1966年の間に年平均11,600人にのぼり,このうち23区内からの者が73.2%を占めた.1975年以降は横ばい状態であったが,1980年18万余のピークに達した.1975年夜間人口は昼間人口より28,919人多く,流出人口が58,151人(通勤80%)に及び,通勤者の53%が都心部3区と新宿・渋谷両区へ出ている.世田谷区と同じく都心方面へ通勤するサラリーマンの居住地としての特色がみられる.狛江市の場合も増加傾向はとまったが,1980年ピークを示した.この市も住宅地の開発により,1960年2.1万から1970年5.7万余に増加した.1975年昼間人口は50,210人で,市外への流出人口は26,054人あり,その73%は区部に通勤・通学する者であった.世田谷区・調布市と同型の住宅都市の性格が認められる.
各区・市の人口密度をみると,世田谷区・大田区・幸区・中原区・狛江市は,1km2当たり1万人以上にのぼるが(表8.4.13),23区平均14,150人には及ばない.川崎区の場合は面積の過半が臨海埋立の工業専用地域であるから,居住地域の密度は上記の各区市と同程度となる.これらに対し,内陸部の調布市と高津・多摩両区は,一層人口密度が疎になる.農業用地・雑地・山林等のオープンスペースが他より比較的残存している地域であり,第一次産業就業者の構成比も他より高率になっている.