3.2 住宅地域の開発
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3.2 住宅地域の開発

3.2.1 郊外電鉄と田園都市

(1) 田園都市の建設

 多摩川下流域は,東京都心から南西約10〜20kmの距離にあり,その都市化は郊外電鉄の開通に伴う住宅地の開発によって進展し,本格的な田園都市計画がその推進力となって展開した.東京郊外で早期の組織的な住宅地開発事業は,1912年(大正1)に不動産会社による新町住宅地に実現した.ここは当時の駒沢・玉川両村にまたがる約23万m2の山林・原野で,1907年開通した玉川電気鉄道の新町停留場に近く,1913年に分譲された.渋谷から大山街道に沿って多摩川畔に至る同電鉄は,多摩川砂利の採掘・運搬の事業を始め,特に住宅地開発事業は手がけなかったが,1925年開通の世田谷線とともに,同区中央部の都市化の軸となった.

 次に大規模な宅地開発は,1917年設立の田園都市会社(参38)により計画・実施された.この事業は渋沢栄一を中心として成立したもので,当時欧米における田園趣味豊かな街の姿をモデルとして,東京郊外の台地に田園都市(Garden city)を創造することを目的とした.まず荏原郡洗足・碑衾・調布・玉川各村にわたる138.6haの地域が事業対象地とされた.世田谷・大田・目黒・品川4区にまたがる地域である.この都市建設の基盤となる交通機関として,目黒蒲田電鉄(1923年開通),大井町線(1927年大井町−大岡山間)を敷設し,その他道路・水道・電気・ガス・遊園地・スポーツ・医療等の諸施設を整備することになった.分譲は1922年まず洗足地区(北千束駅付近18.2ha),翌年多摩川台地区(田園調布駅付近10.6ha)で開始された.ここは多摩川の清流や富士の眺めのよい地点で,住宅建築には建ぺい率50%,3階以下とする等,美観を保ち環境悪化を防ぐための条件が決められていた.この地域がやがて新しい高級住宅街となった.1923年関東大震災の影響で,郊外に住宅を求める市民が多くなり,この田園都市は急激に人気を集めた.同社の1928年までの6年間の売上げ分譲地は,105.9haにのぼった.これには東京高等工業(現東京工業大学)の浅草蔵前から大岡山駅前に移転した用地も含まれている.1928年同社は目黒蒲田電鉄に合併し,電鉄会社が土地分譲を継続した.

 一方,東京横浜電鉄は,1926年丸子多摩川−神奈川間,翌年渋谷まで開業した.同電鉄が田園都市業に着手したのは1924年で,それから目黒蒲田電鉄と共同で宅地造成を行い,分譲していった.分譲地は多摩川台・上野毛・等々力(とどろき)奥沢・大岡山・洗足・蒲田その他で合計33.2haに及んだ.尾山台・奥沢では貸地経営も行い,1929年には自由ケ丘・尾山台その他で住宅資金貸付を開始し,この地域の住宅地化を促した.

(2) 土地区画整理事業

 東京郊外では住宅地化の前段階として,耕地・原野の区画整理が広範に実施された.この事業の主体は耕地整理組合や土地区画整理組合であって,農村民により組織された.世田谷区域では1912年(明治45)多摩川岸の耕地整理以後,大正期には南部の深沢や玉川,東部の三宿・代沢方面及び中央部の土地区画整理が進められた(図8.4.27).渋谷町の発展の影響により宅地造成にのり出した荏原郡土地区画整理組合(参39)は,まず住宅好適地として注目された世田谷上町から駒沢にかけての一帯約100haを区画整理し,震災後移住者を受け入れた.続いて世田谷線沿線が整理され急速に住宅地化した.この組合は宅地造成初期のもので,その方法は各方面から注目された.すなわち面積8a(20m×40m)を標準区画として20区画を併列して,その周囲に道路をめぐらし,これを1標準ブロックとして番地をつけた.幹線道路は幅員6〜8m,支線は4〜6mとした.この方法は当時斬新なプランとして郡内の新住宅地開発のモデルとなった.

 玉川全円耕地整理事業(参40)は,村長を中心として村民自らの手で全村約1,000haの耕地整理を行うものであった.同村ではすでに田園都市会社の開発事業が1921年ごろ奥沢方面約6haに及んできた.村では同社の事業に刺激を受け,会社の積極的な土地買収に対抗する運動として,かつは当面の農業経営の合理化と将来の地域発展を目標としての決断であった.この組合は1926年に発足し,事業は土地の交換・分合,開墾,地目変換等の区画形質の変更や,道路・橋梁・溝渠等の工事により整然とした区画を施すことを主とした.1927年同村を通る大井町線,東横線の開通は,この事業の促進の有力な条件となった.1929年早くも尾山台・奥沢方面では整理した土地を田園都市会社の協力を得て売却し,実利を得た.この事業は逐次全村に波及し,1944年にはほとんど完工したが,残余は戦後に受け継がれた.整理前989haの土地は整理後1,027.6haとなり,全体として直交路による整然とした地割となった.1930年代に完工した等々力・尾山付近では傾斜面を利用して高級住宅地が造成された.玉川村のこの事業は,府の補助金が全経費の約6%にすぎず,ほとんど村民の力によるものであり,農村都市化の施策のモデルとして特筆される.以上のような区画整理の結果,世田谷区では大正〜昭和にかけて主に東部・南部の住宅地化が進み,戦後は西部にも広く波及し,住宅都市としての性格を強くした.

 大田区域でも1918〜1926年ごろ各町村で耕地整理組合が結成され,事業が進捗した.すなわち蒲田(68.3ha),蒲田池上矢口聯合(177.4ha),羽田・池上(84.2ha),徳持(69.3ha),池上西部,大森,洗足地区等の組合により事業は広範に及んだ.浦田の迂余曲折のはなはだしかった道路は整理され,幅員は2倍の4〜6mに広げられた.

(3) 電鉄沿線の開発

 多摩川下流部に設けられた郊外電鉄は,その沿線において住宅用地やスポーツ・レクリエーション施設などを造成し,大学を誘致するなど多角的な開発事業を行い,地域の都市化に貢献した.東京横浜電鉄では1926〜1928年に中原区の新丸子,元住吉両駅付近に各々9.4ha,8.1haの造成宅地を分譲し,さらに新丸子に日本医科大学(1932年),元住吉に法政大学(1935年)が開校するに当たり,用地の一部を提供してこれを誘致した.ちなみに同社は青山師範(東京学芸大学,1935年),都立高校(都立大学,1932年)等の沿線誘致に関与した.また同社は多摩川付近に多摩川園(1925年),田園グランド(コロシアム,1935年),テニスコート(1934年)を開き,河川敷約10haを整地してスポーツ施設を設け,両岸の連絡のために鉄道橋に付属して徒歩橋を架けた.1934年渋谷に百貨店が開業し,1939年渋谷−新橋の地下鉄が開通すると,中原方面(川崎市)は東京の商圏に包含される面が多く,特に渋谷との結びつきが濃くなった.駒沢・等々力等には目黒蒲田電鉄のゴルフ場が開かれた.

 次に池上電気鉄道は,1922〜1928年の間に全通したが,都心に遠い蒲田方面から着工したため,沿線の開発が遅れ,1928年から特に東調布地区の住宅地化を促進した.自社や社外者の土地の転貸仲介や,1934年目黒蒲田電鉄に合併して後は池上に分譲地,久ケ原・雪ケ谷等に貸地経営を行うなど事業範囲を拡大した.1933〜1938年ごろ同社は雪ケ谷・石川台・洗足その他で約21haの受託分譲を行った.1931年同潤会による模範的な分譲住宅が小池台・石川台・雪ケ谷等に次々と建設された.

 世田谷区・調布市・狛江市の地域では,新宿を起点とする電鉄により都市化が進展した.1915年甲州街道に沿う京王電鉄,1927年には小田原急行電鉄が新宿に通じた.沿線の開発のうち特に注目されるのは,喜多見における成城学園の移転に伴う住宅地域の建設である.学園では1923年大震災の後,学園敷地と父兄への分譲住宅地として約33haの用地を買収し,区画整理を行った.1925年には住宅建設が始まり,学園は開校した.小田急線開通前のことであったが,この地域では電鉄の工事とともに土地区画整理組合により,122ha余の住宅用地が整理された.電鉄開通とともに駅を中心として諸施設が増え,1934年には南口も開設されて,住宅地はこの方面にも拡大した.当時洋風をとり入れたモダンな住宅建築を文化住宅と称し,その集在地を文化村といった.田園調布・成城・自由ケ丘・上北沢などはその例で,住宅地建設の模範とされた.1933年帝都電鉄(井の頭線)が渋谷−井の頭間,翌年吉祥寺まで開通し,これと小田急・京王線との交差点の下北沢・明大前両駅付近が住宅地の中心地ともなってにぎやかな町になった.調布市は京王線,狛江市は小田急により新宿と短時間で結ばれるようになり,東京近郊の住宅都市としての性格を強くした.

 住宅地の開発とともに注目されるのは,いわゆる寺町の成立である.世田谷区の北西端の烏山に26寺が集在する烏山寺町は,浅草・築地その他旧市内から,関東大震災で焼失したり,市街地の再開発などで立ち退いて遠心的に移転した寺の集合地である.南北800m,東西600mの寺町は,豊かな緑地帯を造り,湧水源でもあるが,周辺には住宅群が建設されてきたので,地域では寺と住民との間に「寺町の環境を守る会」が結成されている.京王線仙川駅の南に5寺が集まる寺町がある.烏山と同じく震災後築地から移転してきたものである.寺町の形成も都市化現象として考えられる.



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