3.3 商工業地域の構成
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3.3 商工業地域の構成

3.3.1 工業地域の拡大と埋立地

(1) 工業地域の配置

 都市化の要素として地域の工業化があげられるが,特に近代工業が高度に集積すると,工業都市としての性格を強くする.京浜地域の中間に位置する多摩川下流の沖積低地は,川崎区・大田区にかけて,臨海埋立地を含む広い用地や水陸交通の便に恵まれ,重化学工業を集積して,京浜工業地帯の中核として発展した.いま用途地域図により(図8.4.32)工業地域の配置をみると,川崎区・大田区の臨海地帯と,多摩川沿岸地帯及び南武線沿線の駅前地を主とし,大規模な地域は溝口付近で終わる.臨海地帯では工業専用地域に指定された部分が多い.世田谷区・調布市・狛江市には準工業地域は散在するが,工業地域指定はない.準工業地域は工業地域の周辺や内陸部にあるが,これも沖積低地に多い.

(2) 川崎市の工業地と埋立地

 川崎における最初の近代工業は,1907年(明治40)横浜製糖(明治製糖)が川崎駅付近の河岸に立地して以来,図8.4.33に示すように各業種の工場が1915年ごろまでに,旧川崎町の多摩川沿岸に集積した.当時川崎町は近代化の柱として工業誘致を積極的に推進し,用地は3.3m2当たり1〜1.5円程度で企業にあっ旋した.最大企業の富士瓦斯紡績(綿紡)はやがて操業を停止し,敷地の大半はいま競馬場になっている.1926年鈴木町に市営の川崎河港が築造された.次の工業地化は臨海地域に進行した.最初に立地した企業は日本鋼管で,京浜間の需要増を見込んで鋼管製造を始め(1913年),後に鉄鋼一貫作業体制を整え,臨海工業地帯の中核として発展した.隣地にセメント工場が1917年立地した.計画的な海面埋立事業は,鶴見川口方面から逐次多摩川河口に向かって進められた.浅野総一郎を中心とする埋立会社は,1928年までに鶴見区に隣接する白石・大川町及び扇町の埋立を完工し,新しい工業地を造成した.これらの島状の埋立地には1931年ごろまでに製粉・火力発電所・石油精製・化学肥料(昭和電工)等の臨海性工業が集積し,各企業の専用埠頭が建設された.臨海地には後に水江埋立地の造船所,内部に富士電機(1924年),多摩川河口付近に自動車・特殊鋼等の重工業が集中した.

 工業地化の第3段階は,1935年以後特に戦時に川崎−溝口に至る南武線沿線の沖積低地に展開した.大企業は駅前地または府中県道沿いに成立した.川崎駅西口の東芝電気の工場群,向河原駅前の日本電気(1936年),武蔵中原駅前の富士通信機製造(1938年)を中軸とする電機工業地域を構成し,現在電子工学による先端技術の工業拠点となっている.また1940年以後溝口駅付近の日本光学,元住吉駅付近の航空計器,武蔵新城駅付近の東京中島電気などの航空機工業や貨物線(品鶴線)沿いの三菱重工(自動車)・荏原製作所・帝国通信等の大規模工場が設置され,ぼう大な従業者を集めたので,その寮や社宅が急増して,活況を呈した.戦後は軍需工業が消滅し,平和産業に転換した.第四次の工業化の波は,臨海地域に集中した.すなわち1957〜1960年市営千鳥町埋立地が完工し,日本石油化学をナフサセンターとする石油化学コンビナートが構成され,多くの関連企業や火力発電所が集積し,唯一の公営埠頭である市営埠頭がこの埋立地西部に開かれ,川崎の「海の玄関」となった.続いて多摩川河口に県営の川崎臨海工業地帯造成事業が1957〜1963年に施行され,ここに第2の石油化学コンビナートが建設された(東燃系).この広大な埋立地には外に3製油所や電機工場がある.

 図8.4.34は埋立地の成立を示すが,最新の海面埋立地は京浜運河の防波堤外に造成された.扇島の日本鋼管資材置場の地先460haを埋め立てて,川崎・横浜両市に広がる人工島(550ha)が,1971〜1974年に成立した.新用地に日本鋼管が最新技術による高性能銑鋼一貫施設(粗鋼年産600万t)を建設した.この京浜製鉄所は1976年操業を開始した.同社の在来の高炉・平炉等は撤去され,合理化された.現在造成中の東扇島埋立地(シビルポートアイランド)は大部分完成し,一部埠頭が開業した.この埋立地(442ha)は主として海運増強を図るもので,外貿用15バースその他の埠頭及び関連施設を整備する計画である.京浜運河の下には両埋立地に通じる2つの海底トンネルが開設されている.

 川崎港は,わが国の代表的な工業港である.市営埠頭と営業用の三井・東洋両埠頭の他は,各企業約40社の専用埠頭を備え,沖合にはマンモスタンカーのためのシーバース2基がある.川崎港の海上出入貨物量は輸移出2,895万t,輸移入6,171万t(1980年)で,主に工業原料(鉱物等)を輸入し,工業製品を輸出している.

 川崎の工業製品出荷額は,6兆896億円(1980年)にのぼったが,そのうち川崎区4兆25億円(65.7%),幸区3,397億円,中原区1兆805億円(17.7%),高津区5,883億円,多摩区785億円で,業種別では機械工業32.7%,石油製品24.6%,金属工業14.9%,化学工業16.4%が主で,重化学工業(約90%)の集中に特色がある.

(3) 大田区の工業地と埋立地

 大田区は東京23区最大の工業区である.区域の工業化は,芝・品川方面の先駆的工業の遠心的拡大と,これに伴う下請・部品製造の集積を基盤として進展した.その工業地化の過程は,前掲の川崎の場合との類似点が多い.まず大田区域の近代工業は,大森地区の臨海地に1909年(明治42)に東京瓦斯大森工場,1916年日本特殊鋼,1918年東京瓦斯電気工業(発動機)等が操業を開始し,蒲田駅付近には1912年黒沢商店(タイプライター製造),1921年新潟鉄工所(機械鋳物)等が集積した.1920年化学研究所跡に松竹キネマの蒲田撮影所,1930年南蒲田に東京計器製作所が立地した.1930年(昭和5)の工業生産額(3,270万円)を町別にみると,大森28.8%,蒲田24.7%,入新井24.1%,六郷13.9%,池上4.4%,羽田2.9%の割合を示し,工業が東部の低地に集積したことがわかる.次に工業は多摩川沿岸に発達した.下丸子の河岸には1931年北辰(温度計)・日本精工(ベアリング)の工場が立地し,1937年三菱重工業のトラック量産工場が建設され,翌年陸軍用戦車の専門工場となり,地域の工業の中核となった.河口付近の羽田地区には1938年荏原製作所・大谷重工業,1942年明電社等の企業が成立し,特に空港の拡大により,航空機関係の工場が増加した.かくして工業地は第2次大戦中には,大森−羽田に続く臨海工業地域と,大森・蒲田・六郷に至る鉄道沿線の内陸工業地域及び多摩川岸の河岸工業地域が構成され,これが工業基盤となって今日に受け継がれている.1941年には5,148工場,従業者159,626人を数え,工業生産額約9.4億円のうち蒲田区は71.6%を占め,著しい工業の発展をみた.

 大田区の工業地は戦時の空襲で甚大な打撃を受けたが,戦後特に1955〜1965年ごろに急激に発展し,従業者数は1955年71,891人から1963年183,012人(7,556工場)に増加した.工業地は新しい埋立地に拡大したが,既設の工場の区外への移転も多くなり,近年工業活動の停滞をみるに至った.1980年工場数8,307,従業者94,971人と減少し,工業製品出荷額は1兆4,966万円にとどまった.

 大田区の海面埋立地の土地利用は未完成の部分が多い.早期に造成された平和島(117.6ha)は,最も多角的に利用されている.中央部に高速1号・環状7号の交差帯があり,モノレールの駅前には東京流通センター,北隣に倉庫群・トラック夕ーミナル等の業務施設が集まり,西側の運河は半ば埋め立てられたが,北部に競艇場・温泉場・ボーリング場などのスポーツ・娯楽施設が集合している.南の昭和島(61.6ha)は工業の島で,羽田鉄工団地が成立している.大田区その他にあった鋳鍛造等の中小企業(53工場)が,1969年以来公害対策のためここに移転集結している.この東の京浜島(約132ha)も同類型の工業の島で,都内の鉄鋼・金属製品など公害関連工場の集中移転を目的として造成された.この京浜島工業団地には1970年以来約200企業が集合している.大森・糀谷・羽田・六郷等区内からの移転工場が多い.平和島の東は大井埠頭の埋立地で,大田区側には流通業務,商業・文化施設用地等が計画されているが,広大な空地のままで,緑道公園・水産倉庫があるだけである.この南の城南島も埋立は終わったが,土地利用は今後に待つところが大きい.

 河口の東京国際空港は海老取川で隔てられた島状の地区で,1931年羽田空港開港のころは穴守稲荷の門前町があり,穴守線が通じていた.その後逐次拠張工事が行われ,稲荷社等は羽田に移り,約400haの面積を占めるに至った.現在拡張計画はさらに880haを沖合に埋め立て,滑走路を外周部に移動し,発着能力を1.6倍にするもので,公害対策のうえからも期待されている.

(4) 世田谷・調布・狛江の工業地

 世田谷区は大田区とは対象的に工業生産(1980年出荷額1,634億円)の少ない区である.23区中でも中野・渋谷・杉並3区に次ぐ小生産区であり,人口1人当たり工業生産の最小の区である.300人以上の大企業は,1927年本郷から烏山に移転したウテナ化粧品工場のみである.準工業地域はわずかに桜新町・経堂の一部地区に限られている.

 調布市の工業製品出荷額は世田谷区と同等で,工場は京王線・甲州街道を軸にその周辺に分布し,準工業地域(117ha)が散在している(図8.4.32).柴崎には小工業団地がある.代表的な企業は,国領地区の東京重機工業(ミシン部品)その他300人以上の7工場がある.市域の工業化は1932年柴崎に日本針布,若葉町に和光堂(育児具)等の軽工業から,1939年には軍需工場敷地が決まり,前記東京重機(軍用小銃製造)や下石原に中島飛行機その他が立地し,機械工業を主とする工業構造に変化した.市では戦後産業振興を図るため,1959年に工場誘致条例を制定したが,人口・住宅の増加のため地価の高騰が著しくなり,工場用地の獲得が困難となったので,1966年この条例は廃止された.したがって工業化はさして進展をみていない.狛江市の工業製品出荷額は543億円(1980年)で,300人以上の企業は和泉本町の東京航空計器(航空機装備品)のみである.この企業は1937年に立地し,現在に至り地域の工業の中核をなしている.機械工業を主とする工業構造は,世田谷区・調布市と同様であり,工場は主に旧野川流域に分布している.



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