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(1) 都市化の動向
東海道の宿駅であった川崎町は,1913年橘樹(たちばな)郡役所が神奈川町から移り,ほぼ現市域の行政・経済の中心地となった.村々では米作を主とし,畑作には麦類のほか各種野菜・果物・花卉栽培等の園芸農業を行い,早くから近郊農業の発達をみた.河口付近の大師河原村では梨・桃栽培が続けられ,1871年海苔養殖が始められた(参49)(純農村期).
1907年以来川崎の駅前・河岸に各種の近代工業が立地集積し,田島村では海面埋立事業が開始され,1913年日本鋼管が立地して臨海工業地の中核となった.続いて海面埋立と京浜運河の開削事業により,1931年までに扇町を中心とする新工業地と港湾施設が成立した.このころ農村地域では園芸農業の最盛期を迎えた.梨・桃の栽培は大師から稲田・高津方面にその中心地が移動し,花卉栽培は中原・高津方面を主とし,野菜は全域に普及した.農産物は東京方面に多量に出荷された(参50).大師の海苔養殖は450戸が従事し,県内最大の生産地として知られた.市制施行の1924年の現市域の人口は10.6万になった.昭和初期には東横・小田急・玉川線及び南武線が開通し,沿線の住宅地や行楽地が開かれ,北西部は渋谷・新宿と直結の便を得た(農工都市期).
1935年ごろから戦時にかけての京浜工業地帯の拡張期に,既成工業地は拡大充実し,新たに南武線沿線に機械製造等の大企業が進出し,現在に受け継がれた工業地域が形成された.戦後は企業の合理化・大型化が進み,臨海地の石油化学や内陸のエレクトロニクスの新規工業が発展し,川崎は日本の有数の工業都市となった(工業都市期).
戦後の工業発展の他に著しい現象は,急速な住宅地化であった.ことに1960年ごろからは,低地のスプロールが水田地域を蚕食し,台地面では大規模住宅団地や分譲住宅地が開発されて,農村的景観を一変した.最近日本鋼管の新鋭製鉄所が建設されたが,市内の工業立地は法的規制や地価の上昇などにより,その条件が厳しいので,主要工場の転出が増加し,脱工業化傾向が強くなった.1980年農家2,764戸のうち,専業は116戸となり,経営面積は960ha(畑86.1%)となった(住工都市期).
(2) 総合計画と公害対策
川崎では人口・産業の増勢が著しくなった1963年に総合計画を策定した.このマスタープラン(参51)は,1968年人口100万を想定し,かつ首都圏整備の基本計画に合わせて,既成市街地や臨海工業用地の整備を進め,市民生活環境の向上を指向した.すでに川崎は豊かな工業都市に発展したが,その反面重化学工業の大型化・高密化や重油への熱源転換等による大気汚染が進行し,市域は煤煙規制法による指定地域となった.
市では1968年に第二次総合計画(参52)を決定し,この年の人口91万,工産額1.2兆円規模から1975年人口130万,工産額2兆円余を想定した.当時工場爆発等の事故があり,さらに公害・犯罪の多い都市として,川崎のイメージは悪化したので,その汚名を払拭し,産業開発路線から住民福祉優先へのビジョンの転換を図った.この期に強化された施策は,市街化開発事業としての住宅団地等の建設と,他都市に先んじた公害対策であった.1970年大気汚染防止のため企業(現39工場)と協定を結び,公害病認定制度を実施してその健康被害の救済に当たった.71年公害局と公害監視センターを新設し,1972年には厳しい規制基準を設けた公害防止条例を制定した.このころ公害に対する住民運動が起こり,企業に対する抗議行動や公害行政の強化策を当局に要請した.1973年人口100万を越えたが,人口増加率は鈍化し,130万計画は非現実的となった.
次に1974年策定された新総合計画(1974〜1985年)は,経済成長第一の従来政策から市民福祉優先が強く打ち出され,産業基盤整備から生活環境整備への転換を目標とした.住宅地の大規模な開発により,川崎は居住都市の性格を強くしたが,生活優先に伴う行政への要求が多様化し,財政需要の増大に苦しむようになった.また公害・災害対策は継承されて,1974年公害研究所を開設し,他都市に先がけて環境アセスメントの条例を制定して,公害発生要因を抑制した.近年大気汚染は改善されてきたが,現在なお公害病認定患者3,341名を数え,公害苦情は年300件以上にのぼっている.