1.2 新河川法制定以前の河川敷
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1.2 新河川法制定以前の河川敷

1.2.1 内務省による築堤以前の河原の利用

 多川の河原に刻まれた人々の生活は,各時代ごとに様々の形で想い起こされる. 『万葉集』巻14の武蔵国歌に

     多摩川に曝(さら)す手作りさらさらに

         何そこの児のここだ愛(かな)しき

という有名な東歌があり,調(みつぎ)の布をさらすのを多摩川の清流で行っていたことを示している.また,鎌倉幕府関係の事跡を編年体で記録した歴史書である『吾妻鏡』には,1231年(寛喜3)2月16日武蔵国沼堤が決壊し,幕府は地頭に命じ,修築せしめたとの記録がある.多摩川は武蔵国と相模国の国境でもあったために,鎌倉時代や室町時代のようないわゆる戦国時代には,分倍河原の戦いのように,その河原で戦が行われた.

 多摩川の河道は絶えず変動し,洪水のたびごとに,川欠けとなって土地が減少することもあり,村と村の境界の争いが各地にあった.多摩川の左岸,世田谷区野毛の武蔵野台地末端にある真言宗善養寺の檀家が対岸の川崎市下野毛にある.今日では,このように多摩川をはさんで,右岸と左岸に分かれているが,かつては同一の村の一部であったことが知られる.明治初期になって陸軍陸地測量部が製作した地形図からも,多摩川の蛇行による旧河道が明瞭に読み取れる.江戸幕府は,川欠けを防ぐために,瀬割工事も実施したが,根本的な解決には,内務省による多摩川改修工事(1918年,大正7,開始)まで侍たなければならなかった.

 江戸時代には,江戸を中心としての交通路が整備されたが,多摩川は非常な荒れ川であったために,架橋も困難であった.そこで武蔵国と相模国を結ぶために,河原と河原を結ぶ渡船場が多く設けられた.六郷の渡し(東海道)をはじめ,丸子の渡し(中原街道),二子の渡し(大山街道),登戸の渡し(津久井街道),関戸の渡し(鎌倉街道),拝島の渡し(日光街道),日野の渡し(甲州街道)などがよく知られていた.これらのうち矢野口の渡しは,1973年(昭和48)まで存続していた.

 江戸時代初期には,現在の川崎市小杉町付近に,将軍家の別荘があり,彼らは広い多摩川の河原で,鷹狩りを楽しんだとされている.これは多摩川の河原におけるレクリエーション的利用の嚆矢(こうし)であったといってよい.

 江戸初期に描かれた「玉川八景の図」などは,当時の観光のためのパンフレットであり,江戸末に著された『江戸名所図絵』や『武蔵名勝図会』はガイドブックで,これをみて,多摩川を訪れる人々も多かったという.

 明治期に入り,1896年(明治29)には河川法(いわゆる旧河川法)が制定されたが,当時の多摩川はほとんど無堤であり,川幅も広狭様々であった.広大な河原は,洪水によって土砂が堆積し,小さい沼が無数に点在し,一部には樹木も繁茂していたと伝えられている.

 明治期の河川事業においては,外国人技師も招いて,近代的な河川技術が導入され,主要河川は国の事業として改修されるようになった.明治期にあっても,内陸交通の主流として,舟運が重要視されたため,河川航路の維持を目的として,水の流れる部分のいわゆる低水工事が国の直轄事業として実施され,高水工事は地方に任せられた.

 1889年(明治22)に甲武鉄道が,新宿から立川へと通ずると,立川辺りの多摩川の河原は,行楽地として大変なにぎわいをみせるようになった.すなわち,河原での水遊びや魚を料理してその場で食するというような形での河原の利用がみられた.現在の日野橋のある甲州街道付近には,アユ料理を専門とする10数軒の料亭があった.1911年(明治44)に発行された『新撰東京名所図絵』には,二子東岸の旗亭について,次のように述べている.「多摩川の東岡即ち行善寺の方面より下瞰すれば川岸に沿って幾処が銘旗の竿頭に々たるを認むべし.是れ近来鮎漁客のために設けたるものにして,近く接すれば「鮎漁宿,御料理旅館,入浴御随意」など掲示しあるを見る.最も大なるを柳家,喜久家,玉泉亭とす.其の他月の家中島や富玉軒,見晴や等十数軒あり.或は「玉川鮎ずし」と貼り出せるものあり.屋根を附せし小船に紅白の幕を繞したるもの多く岸に繋ぐ.是れ問わずして鮎漁船たるを知る.若しそれ一日の清遊を試みむと欲する者は,玉川電車に乗りて此地に来り直ちに旗亭に投じ,一俗一酌後徐ろに船に駕し,漁夫に命じ網して以て香魚を獲,之を下物と為して親友と適意に盃をあげれば,其の興いふべからず.我が青年時代には西岸の一個の亀屋あるのみにて,東岸には人家なかりしが,今や此の如く消夏の好地となりぬ.蓋し時勢の変遷に困ると雖も,亦都人士の奢侈に傾けるを徴すべし」.鮎の解禁は現在と同じく毎年6月1日であった.

 日野の渡しや二子の渡しなどの近辺は,1890年代後半から1920年ごろまで.多摩川の河原におけるこのようなレクリエーション活動は,一層盛んになり,鮎漁や舟遊びは東京市民の一日の楽しみとなった.関東大震災後は,水道用水のために取水され,多摩川中・下流の水位が低くなり,川幅も狭くなったが,1930年ごろまでは,屋形船を浮かべて,団体で宴会をする風景がみられた.狛江市の六郷用水道路の北側には,かつて玉翠圏と呼ばれた料亭があった.この玉翠園は1906年(明治36)から鮎料理を提供し,その後,多摩川の河口付近が工業化のために汚染がひどくなった1939年(昭和14)まで営業していた.

 中西(参1)によれば1920年(大正9)には,現在の多摩川原橋の左岸寄りに,東京府営公衆遊泳場が設けられた.「多摩川の流れに船を一艘浮べ,それに樽をしばりつけた網で一定の区域を囲んだ.今様,天然の流れるプールであった.又,その船も,砂利運搬用の平底大型船で,そのともに近いところに高さ3mの木のやぐらが組まれ,又,そのへさきには長さ5m余りの竿が立てられ,それにはいつも木綿の赤旗が掲げられていた.そして多摩川左岸の松林の中には,よしず張りの事務所と脱衣場などが設けられていた」.

 以上のように多摩川の河原は,レクリエーションに利用されてはいたが.1907年(明治40),1910年(明治43)そして1914年(大正3)のように,洪水が猛威をふるうこともあり,沿川の住民の生活を脅やかしていた.このため流域の住民は低水工事より高水工事を強く要請するようになった.沿岸の町村を主体として明治中期から,国や県に対する堤防築造の運動が盛んになっていった.治水事業は国の重要課題となり,いわゆる旧河川法が制定されると,主要河川の治水事業は国の直轄事業となり,治水の重点は,洪水防禦を主たる対象とする高水工事へと移っていった.

 多摩川では,1914年(大正3)には,いわゆるアミガサ事件を契機として,多摩川築堤期成同盟が,主として農民によって結成された.その後,1916年(大正5)には,東京府議会と神奈川県議会とが共同で,多摩川の築堤運動を進めた結果,1917年(大正6)に多摩川の築堤は,国の直轄事業として実施されることが決定した.そして,多摩川河口より二子橋区間について,「多摩川改修工事」として直ちに着工され,1933年(昭和8)に竣工した.この間の事情を,内務省東京土木出張所が発行した『多摩川改修工事概要』2)(1935年)は次のように記している.

 多摩川改修工事は,大正7年度より昭和8年度に至る16ケ年の継続,総工費金7,339,551円30銭(事務費129,570円80銭,事業費7,209,980円50銭)を以て,左岸東京府北多摩郡砧村,右岸神奈川県橘樹郡高津町以下,海に至る約22粁間を施行したるものなり.

 元来,本川の流路は帝都附近を流下するを以て,一と度洪水氾濫するに於ては,沿岸耕地の被害に止まらず,京浜間に於ける工場及交通機関を脅かし,其影響する処頗る大なり.之が為沿岸住民は根本的改修工事の急施を待望すること切なるものあるに鑑み,政府は大正7年度より8ケ年継続事業として起工せり.然るに其後欧洲大戦の後を受け,急激なる物価労銀の騰貴を来し,当初の予算にては到底事業を遂行能はざるにより,大正12年度に於て河川改良事業を治水事業に編入すると同時に,工費1,882,000円(事務費75,192円,事業費1,806,808円)を増額し,其竣功期を昭和2年度となしたれ共,更にその後同年9月関東大震災の為め,一般政府事業の繰延となり,或は又財政上の関係により,数次に互り工事金422,448円70銭を減額すると共に工期を操延べられ,結局冒頭記載の如く改訂せるものなり.

 多摩川は水利の便遍しと雖も,特に河水は清洌の故を以て,古来玉川上水として引用せられ,現在東京市の外稲田町及中原水道に引用せり.又灌漑面積は8,200ヘクタール,発電水力は秋川筋に350キロワットに過ぎされ共,水運にありては,特に河口に工業都市川崎を有するを以て,船舶の出入頗る多し.此外水産物に於ては,特に鮎の生育に適するが故,年々放流を行ひ,6月1日を期して鮎漁をなすもの亦本川の一名物たるを失はず.

 以上の如く水利の便頗る多しと雖も,一朝洪水を起すときは水害を報じ,直接の損失額1ケ年平均145万余円(自大正7年,至昭和2年平均)に及ぶの状態にして,明治43年の大洪水に於ては,羽村堰より下流の田園を浸し,又道路を押流し,下流京浜間鉄道の如きは不通数日に及べり.此水害面積10,300ヘクタールなり.

 改修区域は,左岸北多摩郡砧村,右岸橘横郡高津町以下,左岸東京市蒲田区,右岸川崎市大師河原に至る区間にして,計画高木量は既往の洪水流量を参酌して4,170立方米と定め,河幅は上流に於て383米,河口に於て545米となし,其両岸に堤防を築造せり,堤防は天端の高計画高水位上1.5米,馬踏5.5米,両法2割法にして,川裏に天端より1.8米下に幅員3.6米の小段を付せり.

 低水路は,底幅73米乃至146米にして,深さを平均干潮位以下1.5米乃至3.6米となし,海中澪筋は水深3.6米底幅109米を保持せしむることゝせり.(以下略)

 一方,多摩川のもたらした河原の砂利は,既に江戸時代から採取されていた.さらに,第一次世界大戦のもたらした経済の好況による京浜地区の発展に伴い,特に関東大震災以後は,建設資材として多摩川の砂利の需要は急増し,機械船による大規模な採掘が行われるようになった.青木(参3)によれば玉川砂利電気鉄道(1907年,渋谷〜二子玉川),多摩川砂利鉄道(1921年.川崎〜登戸)などは砂利の運搬のために敷設された.こうして,昭和初期までには,河口から二子橋付近まで砂利はほとんど採り尽くされた状態になった.長津(参4)によれば,府中市にある多摩川競艇場は,現在堤内地であるが,このような大型の砂利穴群の中に第二次世界大戦後に築造されたものである.



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