1.2 新河川法制定以前の河川敷
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1.2.2 第二次世界大戦以前の河川敷の利用

 国の直轄事業として1918年(大正7)に着工された多摩川の河川改修は,1919年(昭和8)に竣工したが,河口部の河幅は545m,上流域では380mを標準として,築堤,掘削,水衝部の護岸工事が行われた.この結果,河川周辺は図9.4.1に示すような形態を整えることになった.

 この第1期の多摩川河川改修工事が竣工したころの多摩川沿岸の土地利用を,陸軍陸地測量部の作成した地形図でみると,下流部でかつて多摩川の氾濫原であった堤内地は,水田,果樹園(ナシ),桑畑など,広範に利用されている.しかし,堤外地の河川敷地はそのほとんどが荒地となっている.築堤以前,下流部の氾濫原では,いわゆる多摩川梨の栽培が盛んであった.しかし,築堤後の梨の栽培は,中流部の氾濫原へと移動していった.

 大規模な治水工事による連続した堤防の完成は,流域の安全性を増した.この連続堤方式は,氾濫原を堤内地と堤外地に分け,堤内地には産業経済活動の場を確保するとともに,多摩川流域におけるその後の都市化・工業化を容易にした.

 青木(参5)によれば,1930年代後半になると,多摩川下流部一帯は,農村的土地利用から都市的土地利用へ移行した.そして,現在の大田区六郷地先と川崎市小向地先の2個所にゴルフ場(縮少したが1980年現在,残存している)ができ,また川崎市丸子地先には,野球場が造られた.またこのころには,学校の運動場などに高水敷が利用されるようになってきた.この結果を,1935年ごろの建設省の資料によってみると,高水敷の利用は,左岸(東京都側)110ha(1,100,000m2),右岸(神奈川県側)108ha(1,080,000m2)となっており,これは1981年の利用面積の36.5%にものぼる.しかし,第二次世界大戦以前に造られたゴルフ場や運動場は,私企業のものが多く,一般には開放されていなかった.

 1940年代に入り,第二次世界大戦の激化とともに,高水敷の運動場やゴルフ場は,周辺の河川敷地と同じように,そのほとんどは農耕地となって,今日いうところの家庭菜園的な利用も多くみられた,第二次世界大戦中から戦後にかけて河川敷の利用可能なところは,このようにほとんどが農耕地に姿を変えた.筆者の聴き取りによれば,河口から二子橋の間の高水敷の利用可能なところは,農地として利用されていたが,1960年ごろまでには,農耕地はほとんど姿を消したという.



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1.2 新河川法制定以前の河川敷