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田松男 (昭46.4.1〜昭46.8.15)株木建設 渉外部長

日野 本日は歴代の所長さん方に「この四半世紀の多摩川」の座談会にご出席いただき大変ありがとうございました.また高橋先生は,多摩川誌の編集委員長をお願いし,本日,司会をしていただくことで,大変ご苦労さまでありがとうございます.
これから歴代所長さん方のころの治水上,利水上,環境上のこと等についてお話しいただき,今後どうあるべきかについて座談いただくわけですが,この多摩川を現在直接現場で担当している職員に,ご教示をいただきたいと思います.その意味も含めて,どうかよろしくお願いします.
高橋 今日は歴代の所長さん方にお集まりいただき,多摩川の特に戦後史を中心に,貴重なお話を承りたいと存じますので,よろしくお願いします.
多摩川誌全体は,大勢の先生方に原稿をお願いしていますので,正確な歴史,文化等は出るわけですが,今日の場合は,生の声,むしろ活字にはしにくい,エピソードなどに多摩川の裏面史等,原稿用紙に書くのではない味を出していただきたいと思いますので,貴重なお話を承れば幸いです.最初に,各歴代所長の方々,その任期順に,寺師さんから日野さんまで,任期中に遭遇されたことで,ハイライトとお考えになる話を,ご紹介して下さい.
寺師さんは昭和35年の10月から38年12月まで,1年2カ月,所長をされましたが,皮切りをお願いいたします.
道路と河川を担当した京浜工事事務所
寺師 私は35年の10月1日から36年の12月15日まで京浜工事事務所に勤務していました.
35年度までは,道路と河川と両方を担当していました.道路は神奈川県内の国道51号線,16号線を,また20号線は山梨県境までの改良を担当し,河川では多摩川,鶴見川の改修維持,補修等を担当していました.
36年度から河川と道路とが分かれ,京浜工事事務所は多摩川,鶴見川の改修維持補修と酒匂川の砂防を担当し,道路はすべて横浜国道工事事務所で担当することになったのです.
多摩川については,私の任期が短かった関係もあり,もう20数年昔のことですので,あまり記憶も確かではありません.多摩川の予算は,昭和35年度,36年度とも改修費その他合計5,300万円台の少ない予算で,格別なことはなかったように思います.当時は現在の東名多摩川橋付近から下流河口までを田園調布出張所が担当し,上流は日野橋までを当時多摩川原橋付近にあった調布出張所が担当していました.
田園調布出張所では主として二子橋から下流の維持補修工事を,また調布出張所では主に改修工事を施工していたと思います.多摩川は昔から高水敷の利用度が高く,特に二子橋から下流は学校,企業などの野球場,テニスコート,ゴルフ場等運動施設,レクリエーション施設で占用され,利用されていました.
当時は,河川管理は都道府県が担当,多摩川は東京都と神奈川県が河川管理,占用許可等を扱っていましたが直轄河川区域は河川に支障のあるような利用状態がないかどうか,絶えずわれわれが気を配らなければならない状態でした.田園調布出張所の管内は,特に占用件数も多く,出張所は大変苦労が多かったと記憶しています.当時の占用者の中には具合が悪いようなことをやっているということがあり,その取締まりが大変でした.
多摩川は東京,川崎という大都市を貫流する河川で,河川敷の利用の面で,昔から課題の多い河川だと思います.河川をあずかる者は,たとえ流過能力に余裕があるとしても,堤防を前に出すということについては非常に抵抗を感じますが,部分的にはそのような所も出てた例もあります.
高橋 どうもありがとうございました.有賀さん,続いてお願いします.
急流河川の多摩川
有賀 私は寺師さんの後,36年12月から38年の4月までいました.私は以前千曲川,犀川,それから鬼怒川など急流河川に携わっていたが,多摩川は,万葉集にも歌われている静かな,きれいな川という感じを持って臨んだのですが,なかなかの急流に驚きました.
川を見るには,普通,上流から海へ向かって見るのがよいといいますが,多摩川は上流側から見ると,堰が10もあり平穏無事な感じです.ところが,堰の下側から見上げると,4mの落差を持つものもあり,落差を強く感じます.羽村堰は河口から約54qの地点でその間に10個の堰があり,堰の落差が合計約20mもあります.堰の標高が120mぐらいですから,約6分の1は用水堰で,落差を持ち,いわば階段河川です,それから,河床がどんどん下がっている.
もう一つは,蛇行流の問題で,水当たり個所が多くて非常に心配だと思いました.たまたま,昭和37年に,多摩川や鶴見川を見直そうという気運があり,総額170億円の全体計画を作りました.当時,本局はもとより,本省からも治水課にいた古賀先生が私と多摩川の全川を回りました.当時,霞堤をどうするかという問題もあり,主として低水路の固定,蛇行流,水衝部の防御等にどう対処したらよいか,また,河床高の維持はどうするか,ということです.
次に,計画高水流量ですが,小河内ダムは洪水調節をするのか,しないのかという議論もありましたが,計画流量は変えないことにしました.しかし鶴見川は650m3/sを850m3/sにする改訂の上申をしています.多摩川の計画流量は変えないが川の改修,維持は,将来,相当金をかけなくてはいけないということで,170億円の案をまとめて提出しました.
この中に高潮防御計画が36億円,汚濁防止が8億円含まれています.
私の頭に残っているのは,寺師さんが触れましたが,堤防の中にたくさんの家があることです.これをどうしたらよいのか,本省も大分頭を痛めていました.高水敷の造成も管理面を含んで,かなり問題があったと思います.
当時は登戸から北に住む人は少なく,あんな所に住むんですかという程度で,都市化の波が多摩川の上流までは及んでいないし,汚濁も調査は始めましたが,それ以降,あんなになるとは夢にも思いませんでした.しかし汚濁防止の費用がついたことは,意義があると思います.
計画面では,砂礫堆の問題,蛇行流の問題,河床低下の問題など.模型実験などやったり,もっと調査したいと思いましたが,そこまではいかないうちに転勤になりました.
とにかく,当時を振り返ってみて,予算が少なかったことを感じます.全体計画を出してから,本省から大変理解をいただき,それ以後少しずつ予算は増えていったと思います.
高橋 ありがとうございました.30年代の後半は,東京の人口が猛烈に増えたときで,いまの有賀さんのお話で,登戸の上流は,宅地化も進んでいなかった話を伺いましたが,このころから東京の人口が増えて,38年に東京の人口が1,000万を超えて,ようやくこの都市化の波がひしひしと東京を圧迫していった時期だと思います.それでは小坂さん,よろしくお願いいたします.
水質で示される流域社会の力
小坂 両先輩から話があったように,京浜工事が道路,河川に分かれて以後という捕らえ方をしています.川の改修,管理としては,戦前,戦後とか,あるいは震災前と後とか,ところどころにエポック的なものがあると思うので,今日の座談会は事務所が分かれてからの状況をレンズで拡大して,変化を見ようという意味があると思うのですが.
いわゆる内務省時代の京浜工事,あるいは多摩川族という方々がいます.多摩川で育ったという人が,これは別に,事務所長とかの肩書きがなくても,いま,健在でいる方,こういう方々の,より大きなタームでの座談会,また別にもう一つほしい気がします.
直接聞いた話ですが,かなり伝説的な話かも知れないのですが,大正の改修を始めたころは,多摩川の河口まで礫がいっぱいで海に向かって瀬をなしていたそうです.あの辺の水が非常においしかったということで,それを桶にくんで,東京へ売りにいって,結構,繁昌したと,これは明治ごろかもしれませんが,そういうことも聞いた覚えがあります.そういう話が消失しない前に,1回座談会をお開きになってはいかがかなという感じがしています.
私の在任中の印象からいいますと,まず改修の問題,それから管理の問題,もう一つ私の印象に非常に強いのは,水質の問題です.
まず改修の問題ですが,これは私の在任中だけではなくて,その前,本省で上司ズバリいえば川村満雄さんという,非常に治水にうるさい方がいたのですが,その方が,しょっちゅういってたのは,当時は旧河川法時代で管理者は都県ですから,多摩川なんか,もう早く始末して,神奈川,東京都へ渡してしまえと.直轄でいつまでも抱えているのはおかしいというのが20年代の主張と聞いています.いわば,既定の計画流量に対する改修工事はもう終わったという見方が一般的だったわけです.
当時は,予算を見ても,全国の中で,改修費,低いほうから数えて早いのではなかったと思いますが.それに対して維持費がかなり多かったように記憶しています.
改修費と維持費とどう違うのか明確ではないということがあり有賀さんからちょっと話がありましたが,古賀専門官が当時,多摩河全川を歩いて,これは維持費とか,これは改修費とか,仕分けをしたという伝説を聞いていますが.モヤモヤとするぐらい,改修の何千m3/sを流すためには,どういう手順で,なにに重点を置いて改修をやるべきか等,普通の河川の改修の思想なり,哲学ではなくて,早く渡さなくてはいけないのだけど,現在のままではダメだと.というのは,豆板コンクリートが大正時代ずっとやられてボロボロに破損している.そのままでは都県に渡せない.そいつをやりかえる仕事,それを改修費,維持費で交互にやっていたのが,私の当時の印象です.
それと,もう一つは管理の問題とも絡むのですが,砂利採取です.砂利採取は,戦後,相模川が一番ひどかったのです.相模川,多摩川ともに非常に苦労しました.猛烈な乱掘.多摩川でも河床低下は3〜5mと称していたのですが,橋梁,護岸,堰,みんな根が出てきた.この管理の苦労が,私が行く前にずっと続けられていたのではないかと思います.
ですから,35年に事務所分割で,その前,道路と,合同の京浜事務所時代が,都県と一緒になって,かなり苦労したのではないかと思うのです.推察ですが.砂利対策が非常な問題だったと聞いています.
私が行ったときは,全面禁止が37年に行われた後で,静かになっていて,激戦地に戦争の終わった後に行ったような感じで,やはり大変な状況になっていたと記憶しています.

高水敷の利用,不法占用がやはり多摩川にも多かったし,特に鶴見川の下流部に有名な不法占用があったのですが,多摩川にも戸手だとかいろいろあり,初期段階というよりは,むしろ爛熟段階というような感じでした.
ただ,管理に対して役所側が非常に厳格な体制を取っていた印象を持っています.多摩川ではなかったのですが,鶴見川は,ある日,綱島の,東横線の鉄橋のすぐ上に自動車練習場がありますが,いまはああいう形になりましたが,当時,ある朝,出張所長が見たらブルドーザーが入ってきて実力行使で造り始めたので,すぐ止めさせたとか,そういう管理の苦労はかなりあったと記憶していますし,同様な苦労が多摩川でもあったと記憶しています.
そういう努力にもかかわらず,やはり戦後の大きな波で,かなり乱れたのも事実です.水質の問題ですが,ある雑誌にも,この間ちょっと書いたのですが,私自身,学生時代に,多摩川のそばの目黒区に住んでいましたが,秋しょっちゅう,多摩川の下流へ行って,ハゼ釣をやっていた.自分で水とは親しんでいたし,そのころの水質は非常にきれいで,さっき話した,お茶に使う水というわけにはいきませんが,かなりきれいだったことは確かです.ハゼがメチャクチャに釣れました.これは昭和22,23年ごろではなかったかと記憶していますが.
今度,事務所長として赴任して,しょっちゅう低水路に降りる機会が多くなったのですが,そのときは臭くて,真っ黒で行くのも嫌なぐらいだった,もう上流が,いまの高橋先生の話されるように,やはり人口の波で汚染されて,それが下水道のないままに川へ出てきたという変化.ところが,最近行きますと,ハゼが釣れるようになった.水も,若干よくなってきた.なにか歴史の大きな波,悪くする力,よくしようとする流域仕会の力,これの大きな力関係を感じます.私の捕らえたのは,38年ごろ,たまたまポイント的に非常に真っ黒で汚なかったのを記憶していますが.それを真中にして,前と後とを比べると,なにかそういう流域とのかかわりを非常に強く多摩川では感じます.
高橋 ありがとうございました.小坂さんの後は川本さんが所長で,川本さんの任期の間に,東京オリンピックがあり,その年は,東京が水不足で,小河内ダムが大変評判が悪かった.評判が悪いのは,小河内ダムには気の毒だと思いますが,39年の夏は小河内ダムが大変な話題になりました.その2カ月後に東京オリンピックが開かれ,特に隅田川の浄化作戦が行われました.そんな歴史が川本さんの時代にあります.
転換の時代−河川敷の利用−
川本 私がいましたのは,41年の4月に1級水系になりましたが,私の在任は40年の7月までです.まだ都,神奈川県の管理河川でした.しかも二子橋から下流は,もう完成して維持河川という形で改修工事をやっていない.二子橋から上流の日野橋までの間が改修工事をやっていた時代でした.
下流は維持河川でなにもしないという時代でしたが,河川の改修計画面では,下流の高潮計画を立てなくては,ということで,私がいる時代に資料をまとめ,高潮の改修計画を作ったわけです.それが羽田の堤外の大きな民地の移転とか,大きな問題が絡んでいましたが,いま実行に移されつつある.その計画を立てた段階ということが1つあります.
管理面ではいまいったように.管理主体が都県でしたので,われわれは横から眺めていた時代ではありますが.39年のオリンピックを契機にして,河川敷の開放,体育の場,レクリエーションの場として河川敷の利用ということが大きくいわれ出してきました.国会の何委員会か知りませんが,川崎秀二さんが委員長で,体育関係の委員会だったと思いますが,先生方も大挙して見えられました.
高橋 それはオリンピック直後ですか.
川本 直後ですね.当時,申し上げたのは,河川の管理をする立場からいえば.ゴルフ場のように非常に緑のきれいな所もいいですよと.県や区の管理に移ったら,管理の予算がなくて放置され,草ぼうぼうの状況がありますよ,と国会の先生方に説明したようなことがありました.そういう1つのハシリの時代,転換の時代であったと感じます.
もう1つは,河野大臣の時代だと思いますが,河野大臣の発想で,堤防にアパートを建てて,それを堤防に兼用して防壁にしたらという構想が一度出ました.これについては,本省なり,本局の段階で,相当,その当時の方々が苦労されて消えたのだろうと思いますが,現地でもとんでもない話だと.多摩川は緑のきれいな,その当時からもう都市河川でしかも,レクリエーションの場として非常に有効に使われている面もあったから,とんでもない話だということをあちこちにいって回った記憶があります.
高橋 ありがとうございました.その後,山田さんが4年間,所長をされています.山田さん,お願いいたします.
河川敷開放計画の策定
山田 私は昭和40年7月16日から44年6月15日まで.4年といいましたが正確には3年11ヵ月です.
ちょうど,都市問題等がうるさくなりかかったころだと思います.
改修と管理と両方ありますが,最初に管理から申します.40年に赴任して,すぐ起こったのが外郭環状道路を多摩川の堤防に通すという,二子橋の上の所,読売の飛行場の付近から上下線に分け,右岸と左岸に高速道路を通す,それに堤防敷を利用する計画がありました.それの問題で検討しました.
その後,河川敷開放の問題です.40年の後半10月ごろからその作業にかかり,昭和41年に第1次多摩川開放計画を作成しました.
開放計画作成で一番考えたことは,全部即時開放すれば理屈はいらないか,部分的,年次的に開放していくために,どのような基準で開放するかという問題,すなわち開放の基準を作るのに苦労した覚えがあります.
ウロ覚えですが,橋梁の付近で公衆の利用の便のよい所,特定の企業が使っている所,占用状態が非常に悪い所とか,開放の基準を作り,それと年次計画を合わせていったのが河川敷開放計画です.
河川敷開放については,本省,関東地建,事務所が一体になって作業を進め.全体計画は本省で記者発表しています.自動車学校,ゴルフ場等は本局で,グランド,農耕地等は事務所で通知ということで,三つに分けてやりました.
新聞やテレビ等,河川敷開放は非常に好評で,世論が味方したことが,スムーズにいった原因であると思います.
管理と関連して,いま占用準則ができていますが,当時はまだなくて,占用関係の書類は全部本局に上げ,主要ものは本省に上げるということで,その書類の処理に忙殺された覚えがあります.年間1,500件くらい占用関係の書類があり,そのうちの1,000件近くが田園調布出張所です.
占用準則ができるまでは,1年更新の許可ですから,件数が膨大になりました.占用準則ができてからは,許可の期間が長くなり件数も減りました.
第3京浜の建設に伴う,占用取消しのために道路公団が3千数百万円のお金をゴルフ場に払ったのが問題になり,占用準則の中に公共性の高いものとの調整の条項が入ったのは,それがきっかけになったと思います.
40年はまだ2級河川で,管理は都と県でやっていました.さきほど小坂技監から話があった,二子橋から下流,第1期改修でやった区間は旧河川法の特例で維持工事をしていましたので,維持費の大半が下流,田園調布出張所管内で使われたと思ってますし,維持費が改修費よりも確か多かった感じがしました.
小坂 当時は,事務費を改修費でとっちゃうのですからね.
山田 41年に1級河川になり,直轄区域も延長されました.最初は五日市線の鉄道橋,ちょうど50kmの所まで,翌年に青梅の万年橋62kmまで直轄区間になりました.多摩川上流出張所は41年に作りましたが,当初は多摩出張所の構内にあり,福生に移したのは42年,区域が万年橋まで延びたときです.
44年に浅川が高幡橋から上流の南北浅川の合流点まで直轄になりました.大栗川が直轄になった最初は,工事区間だけの告示だったと記憶してます.
41年から羽田の高潮に着手しました.有賀さん,川本さんから話がありましたが,あの付近は堤外に民地のほか河川敷を占用している家屋がたくさんあります.その事情を聞いてみますと,戦後,米軍が羽田の飛行場を拡張するために,付近の人家に48時間以内に立ち退けということで,立ち退く人たちのうち,いく所がなくて,あそこへきたというのが実態のようです.
さきほど,砂利の話がありましたが,空港を拡張するとき,いまの丸子橋の下流の田園調布出張所の対岸の高水敷を掘って,飛行場へ運んだ話も聞いてます.
そのころは東京湾,大阪湾高潮ということで,荒川,江戸川,その他の河川も大々的に高潮対策をやっているにもかかわらず,多摩川が全然高潮対策かないのはおかしいと考えました.羽田水門のある大師橋の付近は,昔の川の河道で,法線が引込んでいます.よく破堤した所だったらしく,そこで,前面に堤防を造り,河川敷を埋めた所に羽田の人たちを移す.特に造船所を移転するために,地元と協議を重ねて,現在の形のものを造ったわけです.高潮の計画については,大田区役所の土木常任委員会や地元に行って説明もしました.
41年には,河川敷開放と並行して,河川環境整備事業がつきました.予算上,河川環境整備事業の費目ができたのは43年か44年だと思いますが,河川改修費の中に河川環境整備事業に使えということで,確か6,000万円ほどの整備費がついて,二子橋の付近とその上流の宇奈根地区の高水敷造成工事を始めました.
多摩川の工事実施基本計画は,41年にできたと思います.そのとき,4,170m3/sの計画で,いまの都市化の問題や,その後の検討で,当時としては多摩川の基本高水は7,000m3/s,河道流量を6,000m3/sにしようという案があり,計画高水位,計画河床高は6,000m3/Sで計算をして作ったと思います.
改修工事については羽田の高潮の他に,中ノ島護岸,秋多築堤,大栗川改修があります.41年に災害があり,多摩川の農林省所管の上河原堰が壊れたが,災害費と災害関連費で,約7億数千万の金と思います.42年か43年ごろ,その復旧工事に着工したいと申請が出てきました.
そこで,4,170m3/Sで復旧しますと,後に改めてやり替えなくてはいけないことになるので,本省,地建とも相談して,6,000m3/Sの流下能力のある堰にして,その差額,2億8,000万ぐらいと思いますが,河川改修で負担をしました.それで,上河原堰が現在の形になりました.
また,多摩ニュータウンがだんだん,工事が進んできたので,多摩ニュータウンから出てくる乞田川が合流する大栗川の一部について43年ごろ,工事にかかった記憶があります.
当時,河道流量6,000m3/s,基本高水を7,000m3/sと考えましたので,1,000m3/sは上流のダムで調節することを考えました.秋川は大体,本川と同じくらいの流域面積を持っているので,秋川にもう一つ,小河内級の洪水調節のダムを造ろうということで,調査を始めました.ダムかできなければ,小河内ダムの利水容量のうち1,000万m3ぐらいを治水で買い取る検討もしたことがあります.
それから,水質の問題も,確かどうしようもないくらい悪化してました.カシンベック病とかいう病気が出まして,多摩川の田園調布の取水堰の取水を止めたのも,確か44〜45年ごろ,美濃部都知事のときと思います.
高橋 ありがとうございました.山田さんの場合,4年間おられて,多摩ニュータウンに象徴される中流部での都市化が非常に進んだ時期であろうと思います.
次に,小山さんが,44年の6月から所長をされてますので,小山さん,お願いします.
苦労した産業道路と国道246号線の交通ラッシュ
小山 名所長の山田さんの後を受け,お話のあったことのフォローをしてきたのが,実情だったと思います.
治水と利水について申しますと,在任中は,さしたる洪水もありませんし,渇水もほとんどなく,水の量的な管理の面では,当時の多摩川については心配することはなかったといえます.
ただ,多摩ニュータウンの関連で,当時の大栗川,乞田川は,ほんとに小さい小川でしたが,計画洪水量900m3/sという相当な規模の改修を実施することになったわけです.
山田 大栗川の治水は,新大栗橋までは.直轄でやろうという話が…….それから上流は,都ということだったと思います.
小山 高潮対策事業の羽田の工事.山田さんのときからの補償の話の重要な部分に当たる船溜りと移転地造成をまず手掛けようということで,大師橋をはさんで下手に船溜りの水門,上手に土地造成を実施したのです.
改修では,浅川の高幡橋から南浅川合流点まで約12kmが直轄に編入され,最初の杭を打ち込んだ程度でした.
一番頭に残ってますのは,河川敷の管理の面と,水質に関することです.
河川敷の管理の問題の中でエピソードを拾ってみます.二子橋国道246号ですが,東京都側から橋を渡ると,右岸側を堤防の上を200mばかり上流に昇り川崎市内に入って行くルートになっています.いまはバイパスができましたが.
ところが,堤防上の道路の部分は,川崎市の産業道路が登戸のほうから河口まで下ってきて国道246号とその区間で路線が重複し,朝夕のラッシュ時の渋滞は大変で対策に腐心した管轄の高津警察署長が,産業道路分の交通量を捌すために河原へ道をつけてくれと.このことは地元選出の国会の先生にまで話が上がり,当時の道路局長の高橋国一郎さんまで話が上がり警察相手には,苦労しました.
あと,水質の問題が気になります.小坂技監からも,山田さんからも話がありましたが,私は事務所へ来る前にいまの環境庁の前身の企画庁で水質の担当でしたので,特に印象に残っているわけですが.
中流部の数個所から東京都は上水道用水として源水を取り込んでますが,そのうち一番下流端からは調布の堰の所から玉川浄水場へ取り水をしてる所ですが,あそこに東京都のベテラン水道博士の小島さんがいまして,汚れた河川水を一生懸命苦労して改善し,相模川からの水とか,利根川の水に混ぜて,都民に飲ませているというギリギリのところでしたが,45年には取り止めざるを得なくなった.因果というか,多摩川の誇りが失われたようで残念でした.
高橋 小島貞男さんはあのころ苦労してましたね.
小山 あそこで苦労されて,水質の大家になられたはずですが.それから,流域下水道計画がチラホラと出てきて,霞堤を締め切る計画に合わせて排水口を出す計画で,その数量が300m3/sとか,400m3/sとかいう排水量で,これはもう河川並みかと.処理水の水質が多摩川にどんな影響を及ぼすとか,本川の背水が排水路に対してどうなるとか,ということを検討した記憶があります.浅川には初めて水質自動観測装置を設けたし,川魚の大量死の知らせで水質の監視通報体制を整えたりしたものでした.
高橋 河川環境整備だの,カシンベック病で取水停止だの,大分都市化をめぐる問題が出てきたわけですが,その後,
田さんが所長をしましたので,よろしくお願いします.
忘れられないボーリング場建設問題
田 私は山田さん,小山さんの所長時代に副所長としていたわけで所長としては,本当に短いわけですが.
42年に京浜にきまして,約4年間いました.所長に46年の4月になり,短い期間でしたが,4月早々,会計検査がありました.そして管理のことで忘れられない問題があります.戸手地先の堤外民地にボーリング場を建てるということがあって,この問題が国会まで報告にされ難渋した記憶があります.
あそこは堤外民地ですが,いろんな家が建ってまして,ある土地の所有者がボーリング場を建設したいといい出し,一方,地元の人たちは建設反対と叫んで,また,マスコミにも取り上げられ,いろいろと問題が起きたわけです.
もう一つは,環境整備事業ですか,高水敷の整備事業も多くやってまして,そのころは野鳥を守る会,自然を守る会の人たちが.多摩川についてもうるさくいってきました.ブルドーザーの前の排土板の土砂に死んだ雀を置いて,写真に撮って新聞に載せることもありまして,当時野鳥を守る会,自然保護団体等と,いろいろと話し合いをもって仕事を進めてきました.
高橋 ありがとうございました.その後は富士野さんですが,昭和46年の8月から昭和47年の12月といいますと,昭和47年7月は,全国的に梅雨前線豪雨が暴れた年で,関東でも酒匂川が大被害を受けたときをはさんでおります.ちょうど話がありましたように,そのころ全国的,特に大都市周辺では,川に対する住民運動が相当急速に高まってきた時代と思います.
急速に増え始めた環境整備事業
富士野 私のいたのは1年数カ月ですが,その時期は多摩川に関して,予算的には事業費が増大し始めた時期と思います.改修費もそうですが,環境整備事業費が急速に増え始めた時期です.
もう一つは受託工事費がたくさんあり,その受託工事費の事務費で冷房装置を立派に整備した.各課のという覚えがあります.
要するに子算が伸び始めた時期であった.もう一つは.環境整備をどのように考えるか,あるいはそれに基づいてどうすすめたらよいのかを,いろいろ模索したり,なにかし始めた時期であるかと思います.
また.多摩川をめぐる自然保護運動が,かなり活発になってきた時期だと思います.そんな時期ではなかったかと思うのです.つぎに,洪水,出水の話ですが,1年数カ月のうちに実は3回,戦後来襲した主な洪水がこの時期に三つありまして,実際はかなり堤防が欠けたり,危なくなったりしました.大栗川でもありましたし,多摩川本堤でも実はあったのです.当時の副所長が森岡さんですが,出水したときには,すぐに被災個所,近くの業者を探してブルドーザーを持って行かせ,それから,蛇籠を集めて作業をせいと,夜中でもあっちこっちに森岡さんが行って業者を集めてブルトーザーのエンジンをかけさせたりで,急場をしのぎあまり問題にならなかったことが実はたくさんあったのです.
それから,水防作業は,本来は地元市町村がやるわけですが,洪水がなかったためだと思いますが,水防作業は建設省がやるんだと,地元市町村がかなり思い込んでいたふしがあって市町村に水防の要請をしても,それはうちがやるんですか,誰がやるんですか,水防団なんかいませんよ,という話がかなりありました.
もう一つ,実際にやろうとすると,みんな舗装してあるので,土のうがあってもそれに入れる土がない,それで,公園の砂場の砂で土のうを作ったり,木流しをやるにも,木がないので病院長の了解をもらって,多摩の病院の木を伐ってやった覚えがあります.その後,堤防ののり尻に1mか1.5m,非常用の土取場をとろうということが出てきたはずです.洪水については,そういうことです.
環境問題は,どんな考え方で,なにをやるかということが問題でしたが,かたや自然保護運動がかなり,急速に活発になってきています.
例えば,月曜日の朝,出張所長が現地に行ってみたら,日曜日に堤防ののり尻に桜の苗木が百数十本植えられていたとの話があって,それを処理するのに苦労したこともあります.
水質の問題でも,いろいろありました.多摩川を東京都の下水処理計画から見ると,下水管の代わりに多摩川を使うという感じで,処理用水をみんな多摩川に入れる計画になっていたのです.現在も進んでいますが,数字は正確ではないが,下水処理用水と多摩川の渇水量とが大体同じくらいになる感じで,もし,そうなると,多摩川の水が仮に下水処理で20ppmにしても全部10ppmになってしまう.これは問題ではないかということで,なにか対策を考えるべきだというので,当時は荒井君が語査課長で彼があちこちに当たって考えてまして,いま野川でやっている,高水敷での下水の自然浄化.あれをかなり具体的に調査研究してやれるところまで行ったのですが,その後どうなったか.最近また具体的に野川で始まっていることだと思います.
改修では兵庫島という島があって,河川環境整備の意味から,兵庫島に料理屋が1軒あっのですが,それが目ざわりだからあの島を買ってしまえと,私が副所長にいいまして副所長が相当苦労したと思うのですが.
工事をやらないで,用地を買えというのですから,相当苦労されたと思いますが,当時河川局に小坂さんがいておそらく当時の副所長は小坂さんのところへ相談に行ったと思いますけど,OKになってあれは買ったはずです.
山田 本間さんと思います,
富士野 本間さんか.
山田 兵庫島はその前に一つ問題がありました.ここは民有地ですから.昭和43年ごろ相模原付近の郵便局長をやっていた方が,地主から土地を買い,そこへコンクリートブロック工場を造りたいという話があった.それで河川管理上支障があるので,私のときに買収する計画を立て交渉したのです.実際に買われたのは富士野さんの当時ということですね.
富士野 環境整備で護岸をどう考えるか,実はいろいろ問題であって,急勾配で水面に近づけない河川護岸は,都市の中の空間である川で水と遊ぶという意味からいったら,問題ではないかということで護岸を工夫すべきではないかという考え方から,その当時いろんなことをみんなで考えたのですが.
一つは,いわゆるコンクリートのようなことをやらない,自然のままの切りっぱなしだけの護岸,護岸といえるかどうか知りませんが,それはもたないのかという話になって,やろうということでどこだったかやったはずです.
高橋 試験的に?
富士野 試験的に中洲の水際の勾配と同じにすれば,もつということで.どこかの公園でやったのですが,その後どうなっているでしょうか.それから,植生のできるブロックをやろうということで,赤羽君がいろいろと考えました.事実北多摩1号でやった.その後どうなっていますか.まだ残っていると思いますけど.そんなことがありました.
環境整備を具体的にどう考えて,その手段としてどんなことをやるかを模索しながら進めていた時期だと思います.
先ほど山田所長から外郭環状道路の話がありましたが,私のときに確か平面図と横断図を全部作ったはずで,その後どうなったかはよくわかりませんが.
高橋 ありがとうございました.富士野さんのとき,洪水も大分あったし,環境問題もだんだん現代的になってきているようです.兵庫島などの問題は,いまなお,連綿と続きつつあるようです.
玉光さんの所長時代はオイルショックもあり,昭和48年には,だんだん環境問題が難しくなり,加藤辿さんの「都市を滅した川」とか,横山理子さんの「多摩川の自然を守る」とかの本が出ています.10年前になるので,いまなお,連綿と続いている問題がこのころ噴き出してきたと思います.
玉光さん,任期中の思い出をなにか話していただければと思います.
印象に残る羽田地区の説明会
玉光 私がいたころは大変多事川も平和な時代でした.
歴代所長さんたくさんいますが本当に足で全川歩いたのは,あまりいないのではないかと思います.私は歩くのをモットーとして,とにかく,全川ほとんど歩いたのですが狛江の所も歩きましたが,あの辺が破れるなんてわかりませんでした.
印象深いでき事は,高潮の計画の羽田地区ですね.かからなくてはいけないというので,最初の現地説明会に乗り込んだわけです.羽田公民館で第1回目をやり,100人ぐらい集まったのです.ああいう下流の所で,なんで堤防を引かなくてはいけないのかと.前に出たっていいではないかという話になり,それを説明するのに,随分苦労しました.河川は上流から勾配がだんだん緩くなって,海に行くに従って緩くなるとともに川幅も次第に広くならなくてはいけないのだとか,話しました.
ところが,川が非常に広いわけです.そこぐらい前に出してもいいではないかと,非常に大変な説明です.そんな説明をしたのが一番印象がいまし的でした.中には,あそこの地区もいろんな方て,役所のいうことは信用できないという人もいましてね.それは信用してくれと,一応の話はなんでもするからと.必要があれば事務所に資料があるので,別なときに話そうではないかと.100人もいるところで話すと時間がかかってしょうがないですから.
その後,何回か,私自身は2回ぐらいやったでしょうか.あとは個別に造船所の人やら,話に入っていったということです.
ところが,予算がかなりかかるので,いまだに難問を抱えているわけですし.予算以外にも移転先の問題やらがあり,時間がかかっても少しずつ進んでいると聞いていますが. もう一つ,印象的なのは,山田さんが改築した上河原堰ですか…….
山田 そうです.改築というか…….
玉光 災害合併で河床を下げて水門を造ったのがある.すぐ下流,右岸側に.三沢川が出てきます.そこに,上流の改修ができて,堰のすぐ下流に,相当急な流れが起こる所に水門を造らなくてはというので,予算もさることながら工期的に,1回出水期を越さないとダメだと,2年でやらなくてはというのがありました.
こんな所で仮締切りのまま.出水期を迎えたらえらいことになる.それで工程を徹底的に詰め直し,結局,出水期を迎えずに一つの乾期で詰めてやってよかったという印象があります.ずっと設計がそうなっていてこれで当たり前と思っていたのです.それを徹底的に見直して,それで幸いうまく短縮できたので,やってよかったなと思いました.そんな印象があります.
高橋 ありがとうございました.次は岡田さんの時代になるわけですが,お願いします.
全地建的に対応した狛江地区の氾濫対策
岡田 私が京浜工事事務所の所長は,昭和49年の4月からから昭和50年の8月までの1年と5カ月の間ですが,最初,京浜の事務所に行って,大きなテーマは.多摩川の環境問題もありますが,実務的には多摩川のゴルフ場,これは1次開放で約半分に減ったわけですが,それを全部開放しようという特命がありました.
それと,鶴見川の改修問題.それが事務所としては一番大きなテーマであったわけです.

どこかの裁判所の判事さんが直筆でくれたのは,われわれ老人が手軽にできるのは河川敷のミニコースしかないのだとか,なんで開放するのだという声も一部にありました.ゴルフ場との折衝は難しかった.いろいろ本局等とも相談して,段階的にやって行こうと,最初の開放は3分の1くらい返して下さいという考え方で,だんだん就職問題とか,いろんな問題も解消できるということで進めました.川崎市はかなり熱心に開放々々といっていたので,川崎の市長とか助役等に会って実情を話して,市のほうで再就職等の受け入れもちゃんとやってくれるなら,やりますよということもありました.最終的には,川崎パブリックが,どうしてもいうことを聞かなくて,最後は弁護士がきて弁護士といろいろ話しましたが,所長がいうことはよくわかる.とにかく結論を出して処分を出してくれ.それに対してゴルフ場としてはそれ相応の対抗をやるということで,結果的に訴訟になってわれわれの勝訴で終わったようです.
それに,かなり時間をとられた.そうするうちに,9月,赴任して約5カ月後ですが,9月1日に多摩川の狛江地区で破堤,氾濫です.
それの現地的な対応については,当時の地建局長は岡崎さんですが,岡崎局長の非常に適切な判断で事務所長としての感覚ではあれだけマスコミ等に注目されながら,災害復旧の工事を進めるという感じ,当初あまり予想していなかったから,段階的にやるのかなあと思いながら進めていたら,岡崎局長が直ぐきて,これは全地建的な対応でやるということで,当時の中澤河川部長をチーフとしてその対応をやっていただいたわけです.
まさに24時間作業でして,当時どこで寝たか,どこで起きたかわからない感じで,現場の工事の進捗等をやっていたわけです.
それに並行して,ある程度狛江の地区の工事が進んでくると,上流の浅川とか,多摩川の上流のほう八王子とか,狛江ばかりやってわれわれの所はどうしてくれるのだという声が非常に高まり,早速,局とも相談して,八王子にもう一つ現地対策本部を作りその本部長はここにいます森岡さんが副所長という実務経験もあるので森岡さんをチーフにして,緊急復旧個所,数個所あったと思いますが,その対策をやっていただきました.その間事務所全体としては事務所はゴタゴタした関係もありましたが,一丸となってみんなよくやってくれました.本局等も非常に応援もいただきなんとか無事すごせたということで,非常な経験をさせていただき,感謝しています.
環境問題に関しては,前任の玉光さんの時代に,高橋先生が座長で,「多摩川の環境」名前はなんといいましたか,懇談会を年に1回か2回ぐらい,開いて基本的な勉強をやってまして,私も2回でしたが会議を開いて勉強させてもらった記憶があります.
それから.川崎で地震が起こるよ,という話で,事務所庁舎,非常に老朽の庁舎で床が傾いている.職員も非常に不安な感じで地震が起こったらどうするのだ,ということで補強費と改築の話で急きょ予算要求等やって一部翌年度につけてもらったことです.
もう一つは,ちょっと,災害でバタバタしている最中だったと思いますが,東京都の美濃部知事と神奈川県の長洲知事と環境庁長官と川崎市長が多摩川の現地視察をするということで,下流からずっと例の調布堰,泡の噴いている堰を起点にして,多摩川の災害の現場,ずっと上流のほうと案内した記憶がありますが,車内で私が説明したときに,多摩川は羽村で東京都が低水はほとんど取水して,あとは東京都の下水が流れている川ですよ.という話をしたところ,美濃部さんは下水の第3次処理をやるべきだ,ということをいった記憶もあります.
高橋 ありがとうございました.その後,所長をされました近藤さん,お願いいたします.
河川環境管理財団に依頼した多摩川環境保全基本計画の策定
近藤 私は,岡田さんの後を引き継ぎ,昭和50年9月1日から2年弱,在任したわけです.
ちょうど9月1日が,河川環境管理財団が発足した日で,その組織は小坂さんが本省にいとき,企画されて発足したのですが,資金問題等が残っていていろいろ対処いしたところです.
当時,環境問題は,本省でも取り上げるようになりましたが,多摩川では特にいろんな問題が出てました.
1つは,昭和47年当時だと思いますが,環境庁が自然環境保全法を作って,それから3カ月後に,東京の自然の保護と回復に関する条例ができましたが,これに基づいて,多摩川の河川区域を自然環境保全区域に設定したい,という申し入れが,私が行った前後に,東京都から持ち込まれてます.
それから,環境庁長官,関係の知事,市長との現地視察の後で,多摩川みたいな河川の環境問題は中央省庁で連絡会議を作って大いに議論すべきではないかという知事の申入れがあって,環境庁長官が引き受けたということになり,中央省庁に多摩川流域環境連絡会議が設置されて,多摩川の環境問題を自然保護と水質問題の両面から,環境庁が事務局になって会議をやるという状況が生み出されました.
その他,住民団体からは,いろんな注文が出てきました.一つは多摩川の河川敷で不法耕作をしている面積が,約2万m3ぐらいありました.ちょうど岡田さんの時代に,その年の11月5日を期限として耕作を止めなさい,という立看板を立てました.ちょうど11月の2日,3日が連休だから,その間に,畑にある物は全部取り払って,きれいにしておけという含みもあって,この5日というのが決まったと思います.
5日になりますと,NTVがカメラを持ち込んできて,建設省が畑の物を引っこ抜くのではないかと実況中継しようとしたわけです.テレビで悪代官になるのも具合が悪いので,後はよく話し合ってやっていきます,ということで.そのときは実力行使をしないで,結局12月末ぐらいに持ち込んで,結果処理をしました.
不法耕作に対して,住民団体から非常に強い注文があって,あんな所で肥料をやったりなんかしては水質も悪くするし,公のそういう所をかってに使うのはけしからんということです.こちらも,けしからんとは思うのですが,ネギや大根を引っこ抜くのをテレビで写されるのも困るので,しばらく様子を見るとことにしましたが環境問題が非常にうるさかったのです.
自然環境保全区域の設定問題は,都はまさに多摩川の河川区域だけ設定しようとしていて,河川区域は地主が河川管理者の1人だけですから設定にも都合がよいというので,それだけ設定しようという考えだったのです.それは少なくともこの制度の目的とちょっと違うのではないかと考えたのです.多数の人が関連している現在ある自然環境を保全する目的で,法律を作って多数の人に制約を課するというのならわかるけれども,河川管理者だけ縛るというのはこの制度の目的としてはちょっとおかしいのではないかと.多摩川を含んだ広域でやるのは結構だけど,多摩川だけやるというのは趣旨が違うのではないかと主張しました.一方で,河川管理者が河川環境保全をどう考えているかが,まだ信用ないのではないかということもあって,できたばかりの財団に,今後河川管理者がどう多摩川の環境を保全するかの基本方針を,学識経験者,地域住民の代表である地方公共団体に参画してもらって作ったらどうかということで基本計画の策定を財団にお願いしたわけです.
その学識経験者には,自然保護団体の代表者はもちろん,造園計画,都市計画,余暇利用関係の学識経験者も入ってもらいました.地方公共団体として,代表の市長,区の区長さん等にお願いしたわけです.
ちょうど関東地建では,江戸川も荒川も含めてやろうということで発足当初の財団に,河川環境管理委員会を作り,それには山本三郎先生が委員長.その下の多摩川部会は,西川喬先生になっていただいて,河川環境管理のマスタープラン作りを手掛け始めたわけです.
現地等を見ていただきながら,河川管理者かいかに河川環境管理に苦労しているかということも説明して,その後順調に計画策定に取り組んだわけです.
手掛けたときは,どういう物を作るかがはっきりしないまま,その前文のほうだけ一生懸命書いていて,岩井さんの時代に最後に取りまとめていただきました.そのきっかけを作ったという意味で,鮮明な記憶となっています.
もう1つは,翌年の2月11日だったと思いますが,昭和49年の狛江の災害の後,地元住民から国家賠償法に基づく損害賠償請求が出てきました.道路のほうは道路管理者は非常に損害賠償裁判に慣れていて,手際がいいので道路の代表の所長さんにいろいろ聞いてみると非常に気楽に話されるが河川関係は経験がなかったもので,まず国賠法はどんなものなのだろうかということで,局で若手の課長さんクラスと,どう対応していこうかと,かなり熱心にミーティングをやりました.そもそも裁判のルールとか,システムを全然知らないままだったので相当これに参画して勉強させられた記憶があります.
その場合に,私は水害後に赴任したわけですが,災害前の図面を広げてみても,自分自身として仮にあの水害前に所長をやっていたら,あの水害はやはり予想もできなかったのではないかと思ったのです.あのときのあの設計は,当時の河川技術から見れば問題なかったのではないかと.それをいわゆる訴訟の理論づけにどう反映させていくかということでいろいろ関係の皆さんと議論をした記憶があります.
それから,みなし区域の処理の問題が岡田さんのころからですね.
岡田 私の前からずっとあったのです.
近藤 そうですね.僕は終わりのころだったと思いますが,なんとなく行ってみると,二子新地の駅の前からみなし区域だったりして.
山田 それと登戸の駅の前です.
近藤 昔の霞堤の巻込みみたいな感じの所に駅が乗っかって,昔の堤防がそのままいまは道路になって…….
山田 繁華街になっています.商店街に.
近藤 そうです.会計検査に説明するのに大変でした.私は担当者の説明聞き役でしたが,いかにも都市化の象徴的問題として,昔の霞の跡に立派な駅ができて,繁華街ができてしまったことを見せつけられた思い出があります.
それから,日原ダムの調査のころ,岡田さんの時代からですね.
岡田 私のときに町長に会って…….
近藤 調査に入ってようやくボーリング等もできるようになりまして,奥多摩の中まで町長さんに頼みに行くわけですが,多摩川の下のほうでうるさい話ばかりあるとき,大自然の空気を親しみに行くので非常に楽しい思い出となっています.トピックスといえば,事務所の改築の最初の杭を打ったことです.
高橋 ありがとうどさいました.その後,岩井さんが所長をしています.お願いいたします.
苦労した河川環境管理計画
岩井 私は,近藤さんの後を受け,昭和52年の5月から,昭和52年の7月まで3年間所長をしたわけです.改修関係は,羽田の高潮対策が重点でしたが,大師橋付近の不法占用問題でなかなか進まないということで,不法占用対策を中心に用地関係に力を入れてきました.それから,有賀さんから話が出ていましたが,多摩川はまさに階段河川で,縦断図,横断図を見ていると,非常に河道が荒れているので,底水路の安定対策とういか水衝部対策等をやらなくてはと考えながらそれなりに意を用いてきました.もう1つは,浅川が第二の鶴見川になりかねないということで,相当予算がいるということだったのですがなにせ,鶴見川のほうに予算がとられたといいますか,鶴見川の予算が倍々ゲームで伸びた時期だったので,なかなか多摩川の改修予算は伸びなかったということです.多摩川については,ほとんど環境というか,河川敷利用の関係を一生懸命やった状況です.
先ほど近藤さんから話のあった,多摩川の河川環境管理計画については,委員会の途中から引き継いだわけですが,依然として東京都が,多摩川を自然保護地域の地域指定をやりたいとの考え方を持っていて,ただ,建設省でマスタープランを策定中なので,その成果を一応見たいと.それによって地域指定するかどうか,判断したいということだったわけです.
マスタープランの中味については,東京都の関係者の人たちが,ウン,といえるような内容のものでなくてはいかんということが1つと,自然保護団体(多摩川の場合40ほどありますが)の人たちとの接触がいろいろあったものですから,全部が全部ということはもちろんないのですが,そういう人たちがある程度納得し得るものでないといけないと考えていました.
もちろん沿川の市町村の意向は十分踏まえなければなりませんし,その根回しというか調整に非常に苦労しました.中味の立案よりも,そういった調整に苦労したということです.
お陰様で昭和54年にできたわけです.
それから,第2次開放計画が,まだ少し残ってまして,先ほど,岡田さんからも話が出てましたが,確か近藤さんのときに,もうゴルフ場は,全部開放するのではなくて,ミニコースぐらいにして,後は残すということが,確か決まっていたのではないかと思います.全体の3分1のぐらいは縮め,3分の2ぐらいは残すという感じと思いますが,まだ完全には話がつかない状況でした.川崎パブリックはさきほどの岡田さんの話のように訴訟をやってました.東急・多摩川ゴルフのいい分は,依然として川崎パブリックが頑張って営業をやっているのに第2次開放計画に応じて,少しでも縮めればまさにミニコースになってしまい,客をとられ具合が悪いということでした.そのへん大変苦労したが,一応理解いただきました.
それから,ジャイアンツと日本ハムの話がありました.ジャイアンツは,練習日に堤防天端まで見物客が多いということで,やはり地域住民のために,これは残すべきではないかという意見が大田区や世田谷区にありました.
山田 それは,最初に申し上げた第1次開放のときに,橋梁の上下流1km程度で,公衆の利用の便によい所ということで,事務所の原案では,ジャイアンツのグランドも第1次開放の計画に入れてありました.いろんな話がありましたが,最後に中央官庁合同会議所で,本省河川局治水課,水政課との会議がありました.そのとき,水政課長の粟屋さんから,“山田さん,ジャイアンツのグランドを開放するのは,考え直したらどうだ”という発言がありました.“王,長嶋を後楽園に見に行けない子供たちの楽しみを奪うのは,酷だよ”と,いうことです.3月の後半になって私も何回か行きましたが,キャンプから帰って多摩川で練習する日は数千人の人が来ます.ちょうど3月の春休みですし,子供たちがいっぱい来るものですから.
それで,あのグランドは開放しないことにして,その代わり,あそこは,A面とB面と2面あるので,1面を準開放ということで,1週間に何回かは一般に使わせることにしました.
そうしたら対岸に当時,東映フライヤーズのグランドがありましたが,ジャイアンツを開放しないで,東映フライヤーズを開放する理由がなくなった.バランス上,あの2つを残したということで,それがずっと岩井さんのときまで続いてきたのです.
岩井 それで,太田区や世田谷区は,ぜひジャイアンツはいてくれと.川崎市は,公園を増やしたいので,ぜひ日本ハムに出て行ってもらいたいということだったわけです.自治体の意向を聞かなくてはいけないわけですが,ちょっとバランスが悪いものですから,川崎市を大分説得して両方残すようにしました.その代わり日本ハムのほうは一部返していただき,それがいま財団の直営の野球場になって一般市民が使うようになっているのです.
また,ジャイアンツも日本ハムも平等にBグランドだけは一般に開放するということで現在に至っていると思います.その後日本ハムも優勝し,ジャイアンツと多摩川シリーズもやりましたので,ああいう形で子供たちが身近にプロの選手を見るのもいいのではないかと思っているのです.そんなことがありました.
次に,水利権の関係ですが,多摩川の裁判が昭和54年の1月に出ましたが,その中に若干水利権に関する記載がありました.山田所長のころではないかと思いますが,それまで許可になっていた二ケ領用水の水利権量をやはり見直して減らすべきではないかという事務所の見解で,許可更新時の申請書が一応川崎市に突き返してあったのです.その後,川崎から申請が出てこなくて,許可の形になっていなかったのです.それをはっきりすべきではないかと,本省からも怒られ川崎市や関係の土地改良区と大分ガタガタやりました.9.3m3/sほどですがそれを 5m3/sちょっとに縮めるということで,川崎も一応納得しました.その後,県の水資源部局が相当抵抗して,既得のものをやはり縮めるのは大問題だということでした.それも矢野所長のときに一応解決したわけです.
そういうことで,多摩川の水問題を考えるときに,水質はかりでなく,当然,量の問題もあるわけで,多摩川に数多くある堰に関連しての農業用水,その他の水利権についての問題がこれからの問題としてまだ残っているのではないかという気がしています.
山田 ちょっと数字ははっきりしませんが,農業用水を工業用水に転用する許可か更新の許可をしたと思います.
岩井 もう,工業用水にはなっていました.
山田 詳しく覚えていませんが,なんかそういう問題があって……・
岩井 もともと,9.35m3/sありまして,2.35m3/sが工業用水になっています.当初は全部農業用水だったのですが2.35m3/sだけ工業用水に転用になっていたのです.
農業用水の7m3/sも,さらに工業用水にされると具合が悪い面もありますし,いらないものはいらないという形で,返してもらうということで,縮小してもらったということです.
高橋 次は,矢野さん,お願いします.
石を利用した河川浄化作業の事業化
矢野 私は,岩井さんの後,昭和55年の7月から昭和57年の4月まで,約1年9カ月,京浜工事事務所でお世話になったわけですが.
先ほど来,諸先輩のお話の中で.水質の話が出てきましたが,いつごろからか直轄河川の全国ワースト5,水質の悪い順に番付表を発表する習慣がついて,大変不幸なことに,京浜工事事務所の河川,鶴見川がいつもトップの,3つのグループの1つに入る.それから多摩川が大体4位か5位ということで,ワースト5に2つも名を連ねるのは非常に不名誉だということから,なんとか河川管理者も水質改善に直接寄与できないかということが,かねてからの懸案になっていました.その一環として下流部のヘドロのしゅんせつを鋭意進めてきたわけですが,さらにということを考え,先ほど,富士野次官から話がありました,昭和48年にほは実用化の見通しのついた.石ころを利用した河川水の浄化事業に着手の方向でいろいろ検討をしたわけですが,はからずも,昭和56年度からこの事業化が認められました.
当時,当節はやりの自然食品ブームではありませんが,薬品を利用しないでただ単に敷き詰めた石ころの中に汚れた水を通すだけで,出てきたときには水がきれいになっているということが話題を呼び,私もNHKの朝のロータリーに出されたこともあります.
昭和56年,57年,58年と3年の月日を費して,今年の7月には全施設が完成することになっています.その結果,多摩川に流入する汚ない支川の中でも一番悪いといわれている野川の水が格段にきれいになることが期待されています.
私自身の体験から申しますと,これも多摩川の非常に大きな問題である不法占用問題で1つ,大きな事件にぶつかりました.富士野次官から日曜日が終わって,月曜日に現場に出て見たら,堤防に桜が植わっていたという話がありましたが,実は非常にこれとよく似たことを,私も経験しました.
昭和56年の正月休みが終わって,現場の点検をしたら,ちょうど六郷橋の下のあたりに約500tの産業廃棄物が橋の下一面に捨てられていた.大変な騒ぎになり,捨てた本人は,六郷橋の下に昭和40年ごろから住みついた,鳶職を生業としている人ですが,その人がどうも産業廃棄物業者からお金を取って,そこに捨てさせた事実が警察の調査でわかったわけです.
警察は廃棄物処理法に違反ということで身柄を拘束する.私どもは河川法違反ということで撤去を警告し,かつ,どうしても受け入れられなかったものですから,ついに告発に踏み切りました.私どもはその告発をした時点で,どうしてもこれを取り除かなければ,代執行とまで行こうというつもりで,一連の手続きをとっていたわけですが,とうとう,何回も警告したのですが,本人が自らの意志で撤去をすることをしなかったものですから,昭和56年の6月25日に代執行で,事務所職員約170人のうちの約半分が出動して,投棄された廃棄物と橋梁下の不法建築家屋を撤去しました.
もちろん,その撤去の前に仮に不法に住んでいたとしても,ただ追い出すだけでは物事は解決しないということもあり,東京都の協力を得て都営住宅を用意していただいて,そちらに移住してもらうことにしました.入れものを用意したうえで,実力行使というやり方で,不法行為を排除する経験をしました.
もう1つ,河川改修に関連して,非常に貴重な体験と思うのは羽村堰の右岸に草花地区があります.この地区は昭和40年代の終わり頃に築堤工事が完成していました.大体堤防の背後地に100戸ぐらいの住家があるわけですが,この地区の改修に関連して珍しい体験をしました.
昭和49年,狛江の災害が起きたときに,類似した災害がその羽村堰でも起きました.それは羽村堰の右岸の堤防が破堤したわけです.その破堤の原因は羽村堰が大体高さ3mから4mあると思いますが,その羽村堰を越えた水が下流右岸の堰の取付け部付近に落下し,その落下地点付近が洗掘されて,その洗掘の影響で堤防が徐々にえぐられて,最後にはほとんどなくなって災害が起きたわけです.
その災害復旧をしたときに,当然原型3mの落差をできるだけ小さくするために,堤防の前に,小段というか,簡単な高水敷というか,そういう物を造った形で災害復旧をした.そのこと自体は正しい方法だったわけですが,ところが,堰下流の地盤が高くなったことで,今度は堰を越えて水が堤防をはい上がる現象が生じる結果になったわけです.
普通ですと,計画高水位まで施工しますが,こうした点を考慮してこの地点では,護岸が天端まで施工されています.こうした非常に細かな配慮をされた改修をしたわけですが,昭和56年の9月の洪水時には羽村地点の計画高水流量2,600m3/Sの約半分ぐらいの規模の出水があったわけです.
そのとき現地の人の話を聞くと,天端スレスレまで水位が上昇したということで,洪水の直後に草花地区の方々が,ほんとに目の色を変えて事務所に陳情というよりも,むしろ抗議にこられたわけです.そのとき,その人たちの目の色を見て,これはちょっと大変なことだなと思いましたので,とにかく私自身が現地へ行って調査をします,と約束して,お引き取り願いました.
後日,現地へ行って見たところ,現地の住民の方々も立ち会ったわけですが,どうも,やはり非常に客観的に見て,危険だということが推定されましたので,すでに完成断面でできていた堤防ですが,それをさらに1.5m嵩上げしようと決心しました.そしてその年度中に堤防の嵩上げを実施しました.
ちょっと余分なことをしたかなと思ったのですが,安心料だと思ってその場はいたわけですが,その翌年昭和57年の8月ですか,まさに昭和49年の洪水の再来といわれる計画高水流量近い出水がありまして,はからずもその1.5m上げた堤防が役に立った.それがなければ,どうもあれは水が飛び越えて草花地区の中に水が入ってしまったろうという旨のお礼の電話が,羽村の町長さんから事務所へきたそうです.そのときは事務所を去っていましたが,日野さんからその話を聞きまして,やはり地元の人が必死になってものをいうときには,まじめに聞かなくてはいけないのだなあということを,しみじみ実感として感じた次第です.
ちょっと時間長くなりましたが,先ほど,近藤課長から紹介のありました,昭和51年の3月に最初の杭を打ちました事務所が,非常に運のよいことに私の在職中に完成して,昭和56年の6月1日に昭和14年以来,長く住み慣れたなつかしい事務所を去って,新しい事務所に移転をしたという非常に嬉しい経験をさせていただきました.
高橋 ありがとうございました.では最後に,現所長の日野さん,お願いいたします.
気になる出水後水質の浄化
日野 私は,昭和57年の4月から現在までまだ1年足らずですが,先ほど,ちょっと矢野さんから話の出ていました洪水,昭和22年のキャスリン2洪水に匹敵するといわれるほどの洪水がありました.昭和49年と比べて見ると30cmほど水が高い程度ですが,順番からいうと,戦後,キャスリン2に匹敵するといわれています.
それが台風10号でしたが,その1カ月後に,やはり18号がありまして二度続けて大きな出水を経験したわけですが,幸い,昭和49年の狛江のようなああいう事故はなかったわけですが.
しかし,洪水をいろいろ経験してみますと,先ほど来,先輩の所長さんから話が出ていたように,水防のあり方,特にいわゆる水防法の水防管理団体がやる水防と,われわれが河川法の緊急措置でやる水防との絡みをどうしていくのかということが,前々から頭の中ではわかっていたし,口でも議論はしていたが,実際に現場の責任者として対応したときに,やはり結局,また同じ悩みにぶち当たっているわけですが.
当日はそんなことをいえないものですから,両方ができるだけのことをやり尽くしたわけですが,やはり終わって考えてみると,やはりそういうことがまた問題に昇ってきている感じを受けるわけです.
都市河川で,だんだん水防管理団体も弱体化するといいますか,そういう中でどうして行くかというのも,また諸先輩の皆さん方の意見もちょっと聞かせていただきたいと考えています.われわれも水防対策車なんかもできていまして,第1報はもちろん電報,それから電送,そういうのができる対策車をこれは近藤さんのお考えですかね,京浜の専用のがありますので,昨年の出水もそれを派遣して,副所長を現地対策本部長にして,向こうからの情報,こっちからの指示ということでやりましたが,地元からは非常に安心感が持てるということで感謝されました.
出水では大事故はなかったわけですが,災害復旧,いわゆる公共土木施設の災害は昭和49年に次ぐ大きな額になりまして,本年度75%あるいは80%が,お陰様で全部発注が完了しました.もう1つ,これは治水とか洪水対策とは直接関係ないのですが,今回の出水でもう1つ水質面で,非常に興味のあることがわかったわけです.
多摩川もそうですが,鶴見川も同じような現象が出ていますが,この出水後に,普段の水質の倍ぐらいきれいになっているというか,BODでいうと,半分ぐらいの汚濁になっているのがかなり継続していて,最新のデータを見てもまだ平常の半分ぐらいということです.
これは,流域全体のゴミが一度に流されたからそうなのか,河床に溜まっていた物がもう河床はそれこそ洗い流されているので新品の状態になって,いま吸着したり,沈殿したりしていてそうなっているのか,いま過去の出水後の状況を調べたり,学識経験者のご意見をお聞きしたりしていますが.
もし,河道の中で人工的な手を加えて,そのようにBODを半減できるとしたら,これはものすごく効果のあることではないかと思いまして,いま調査しているところですが.どちらかあるいは両方に原因があるのかまだわかりませんけれども.先ほど,矢野さんからもありました,礫間浄化もそういう河川の持つ自然の浄化機能を,人工の手を少し加えることで,生かしてやろうという発想に立つものです.
今回の出水のような,なにか人工の手を少し加えることで河川の持つ自然浄化機能を生かすことができたならなあと考えています.これは調査結果を見てみないと,どういうことになるかわかりませんが,非常に興味深い現象が起こっています.
高橋 ありがとうございました.ひととおりお伺いしまして,多摩川の4分の1世紀の経過をうかがったことになります.
理想を掲げてやることが必要
小坂さん,後,ずっと関東地建,河川局で多摩川を別な面で眺めていたと思いますので,ここでご感想なり,コメントを伺いたいと思います.
小坂 先ほどは自分のいたときを中心に話したので,もう少し別の立場にいたときに,私が接触したいろいろな問題がありますので,それを二,三話してみたいと思います.
まず,手近なところで,矢野さんから,草花地区の話が出たのですが,実はあれ仕掛けたのは私でして,いま,思い出そうと思っているのだけど,この中のどなたかの事務所長のときですか…….
日野 私もちょっと本省で関係しましたので記憶しているのですが,岩井さんが所長のころではありませんか.
小坂 いや,もっと前だ.
山田 どの付近ですか.
日野 堰のすぐ右岸の下流です.
小坂 工事は先になったけど,あそこへ計画法線を入れて,堤防を造ろうと決めたのは私です.
これは日野橋から上流に区域延長していっぺん,その延長したところをつぶさに見ようということでテコテコ歩いたのですが.そのときにヒョッと見たらあそこに料理屋があったかな.あの辺まで,行ったら後ろにものすごく人家ができつつあるのに堤防がない.かたや対岸を見ると羽村の高い堤防がある.こんなに人家があるのにしかもこの辺急流河川だし,これで大大夫なものか,ということですぐ調べさせて,ここにはもちろん堤防はいりますということで,急きょそこへ線を入れて計画したと思います.
とにかく,明日からというか,その年度から工事にかかれということで,少し堤防が低すぎてお小言をくらったらしいけど.逆に,あれがなければもっと大変なことになって,人家が直ちに流失したと思われるし,不完全ではあったけどやはりやってよかったなと思っています.
まさかと思うような事故が河川の場合には起こるので,人家密集地帯は見つければ直ぐ手を打たせなくてはいかんだろうと.一方,下流を見ると,戸手だとか,二子だとかいっぱいありますが,あれはあれなりにやはり計画が決まっていて,地元の事情で遅れているので,これはしようがないと思いますが,そういったことを,本当に痛感しますね.草花築堤の話が出たので.
山田 その上流側を私のときに暫定で施工したことは覚えています.
小坂 その草花という名前も5万分の1図を見たら草花とあるので,なんでもかまわんから草花と付けろと,そういう記憶がありますからね,誰か一緒に行ったはずです.
もう1つ,さっきから災害の話が非常に出ているので,私の多摩川における災害で非常に強い印象があるのは,警戒流量という言葉を使い出しその言葉を使って大蔵省に災害を認めてもらった経験があります.
高橋 それはいつごろですか.
小坂 これは課長補佐時代です.治水課の専門官が三浦さんだったと思います.これは定かではないけど,確か関戸橋だったかな,どこかの橋のそばでね? あなたのときだな.
山田 私のときです.昭和40年9月17日の台風24号です.京王線の鉄道橋の下流,関戸橋をはさんで,上・下流600mぐらいだったと思います.日曜日に災害査定に三浦さんと一緒に,こられて,採択されたことがあります.
小坂 とにかく多摩川は水位が上がらないのです.河床低下ですね.警戒水位なんてとてもなりっこない.
ところが流量から見ると,昔の断面図に警戒水位を入れた流量計算をすると,その流量よりはるかに流れている.それから,河川構造物に対する害を与える面からいえば,流量がそれだけ立派にあるのだから,なにもオーバーフロ−の危険だけが河川の堤防の危険ではなくて,流量がある程度以上になれば,災害として取ってもよいではないかと理屈をこね回して,大蔵省もなかなかウソといってくれなかったのを,なんとかかんとかいってついにもらった覚えがあります.
したがって,今後も警戒水位を下げるということも1つあるかもしれないけど,ヘタに下げると,今度は水防団の出動回数が多くなって,水防法と切り離してしまえばいいのだが,いまの法律のままでは,なかなかうまくいかないので,警戒流量とかなんとかいうことで,多摩川のような川は河床低下が著しくて,それに対する手当が改修費なり維持費で十分にできない川は,そんな知恵で取って行かなくてはいけないと思います.
狛江の災害に対しても,本来,前々から努力はしていたけど,やられたというのがわれわれの1つの論拠にはなっているわけですがね.今後,基本的には警戒水位の見直しということですが,警戒流量というのを大いに使われたらどうかな,という感じがします.これは,このとき1回だけではなくて,昔,僕は常陸の所長をやっているときにこれは直轄災害ではなくて,県道橋が落ちたのです.これもやはり河床低下がひどくて,計算したら警戒水位の流量より多いというので,当時武藤調査官,彼が災害査定官で来て,なにかいい知恵はないかというので,ウチのほうで資料だけ渡した.後,それでうまくいったらしいという前例があったものだから.
日野 ありがとうございます.
小坂 ちょっとあれやこれや,いろんなことを申しますが,都市河川小委員会だったと思いますが,魚の中村純先生ですね.あの方が河川の水質と魚の関係についていろいろ話していたら,例を1つ,多摩川にあげられて東京といえば日本の顔である.その東京のいわば玄関口に当たる多摩川でいまの水質では,せいぜいフナぐらいしかダメだと.これはやはりアユが河口から川のテッペンまで昇れるような川にしないと.かなり昔の早い時期だったと思います.都市河川小委員会が始まったばかりの,昭和45,46年ぐらいだったと思いますが.そのころ,そういう発言があったのです.
当時は,まだまだ水が真っ黒けで,なにをいっているのかなと思っていたのですが,いまに思うと,河川屋だけが頑張ったってしょうがないのですが,そういう理想を掲げてやることが必要だなという感じがしています.これは多摩川とアユということで.最近,サケを昇らせようということをいっていますけど,そんな昔の記憶が非常に強烈にあったものですから,ちょっと申しておきます.
それに関連して,鳥獣保護区の特別地域の指定,これは話がどなたからも出なかったのですが,かなりあれもガタガタやりましてね.あれは環境庁でしたね.わが方としてはあれは狛江の前ですからね.まだ水害の危険を人々が意識していないころです.そのこう,われわれは将来これまで河道改修しなくてはいかん,掘削しなくてはいかん,この特別保護区にされたら,石ころ1つ動かすのも環境庁協議も必要だし,第一そんなことを許してもらえなくなるだろうということで,治水至上主義を1つ認めてくれという,その主張をした経験があります.
いまから思うと,やはり狛江の前にわれわれがそういうことをしていたのも,1つの意味はあったのだなと.現実には,計画を外して指定したのだったですかな.秋川の合流点まで.確かかなり配慮はしてもらって,工事には差し支えないようになっているのですが.しかし,それにしてもあそこをいじるのは大変だろうと思うのですがね,そんな記憶があります.
さっき高潮の話が出たのですが,いまの左岸の高潮の法線を入れたのにも,実は関連したのですが.というのは東京湾高潮の計画は,昭和34年の伊勢湾高潮以後,運輸省と建設省が共同で委員会とか,検討会を持って東京湾奥の朔望平均満潮位AP2.1mプラス,異常偏差が3mで計画潮位5.1mというのを各省共同で決めた.農林省も入っていたかな.それに対して,建設省所管の海岸堤防や,隅田川沿いだとかの補助河川区域をそれに合わせて今度は遡上だとか,打ち上げたとか入れて,独自の高さを決めてやっていたのですが,肝心の直轄については荒川,江戸川は計画したのですが,多摩川は実は抜けていたのです.
それで,どうしても急いでやらなくてはいけないということで,計画を急に入れたと思います.そのときに,例の造船所だとか,あそこに船宿がいっぱいあるので,この辺をどうするのかなという感じだったのですが,とにかく伊勢湾みたいなのが,また私たちのころは昭和30年代ですから,昭和34年の伊勢湾のまだ余韻が残っているころで,脅しといってはおかしいけど,われわれがなにかいえば相手も聞いてくれた時代ではあるのです.だから38総体で入れたのですかな,ちょっと,そのへん年次の記憶がわからなくなったのですが.どうしても入れろというわけであれを入れた記憶があります.
入れたけど,実施はこれは事務所側も大変苦労している.いまも苦労していると思うのですが.やはり,私はあの辺へよく釣りに行くものだから,あれを見ながら感じるのだけど,狛江の災害の起きる前,多摩川にあの狛江災害のような現象が起きようとは河川屋でも想像しないで,一般の人も想像しない.伊勢湾高潮のようなのが二度くるとはちょっといま,脅しをかけてもあまりきかないようだけど,やはり河川屋はそんなことに関係なく決めたらやはりやらないと,もしもあそこへきたらあの外に住んでいる人たち,あの戸手は川裏っていうか,波の方向からいうと裏になる所に当たる.左岸はもう湾口から入ってきたのにモロにぶつかるのですからね,それこそ人は逃げて無事にしてもあの辺の家は全部やられちゃうから,とにかく早くやらなくてはいかんのではないか.
というのは,隅田川だとか,他の個所はもう牢獄みたいなパラペットが全部済んで,今度は第2段階をやろうという時期ですから.直轄部分があんなに遅れていては困る.大変な仕事ですが,あの付近を見るたびにいつも狛江との関連で,やはり勇気を出して早くやらなくてはいかんという感じがします.金がいりますがね.
多摩川で,私のいたとき以外のかかわりあいで,いろいろ感じていたのは,それぐらい.
もう1つ.ちょっと話が出なかったのですが,緊急道路といいますか,あの話が出なかった.あれはいつごろ誰の所長のときに始めたのだったか.これも実は私が本省の都市河川対策室にいたときに,秦野さんだったかな,地震がばかにクローズアップして,地震々々といってえらい騒ぎやらされたのです.それで各局にいろんな地震対策をやらせた.
もちろん,ウチのほうは,高潮で造ったパラペットが壊れるというのも困るわけなのだけど,それ以外にやはり,積極的になにか,こちら側が地震対策に寄与する方法はないかということで,1つ思いついたのが,道路局で啓開道路というのを盛んにアピールし出した.よし,なにかウチもやってやろうということで,一番走りやすいのはむしろ高水敷ではないか.街の中が火災でガラガラになった場合でも,高水敷はブルドーザーさえ動かせば,なんとかなるだろうと.そこに砂利だけまいておけば,ブルでならせば,多少ひびが入っていたって通れるだろうというのが発想で.それでやって見ないかということで,荒川と江戸川と多摩川に命じて,急きょその計画を出してもらった.
ただし,そのときに東京都から頑強な抵抗がありまして,その後これはいわゆる後日談になりますが,「赤旗」に私の名前まで出されて,建設省の計画している緊急道路と称するものは地震のときに自衛隊が弾圧のために都内に展開するための道路であると,新聞に記事になって出ましてね.なにをいっているかと思ったけど,しかし,構わずやったわけですが.したがって,川崎側をずっと通しちゃって……
日野 はい,もうできました.
小坂 東京都側は造らなかったのですかね.
日野 今年から.
小坂 あのときは協議会を作ってやろうとしたけど,東京都がどうしてもいうことを聞かなかった.それで荒川のほうは東京都だったけど,なんかうまくいっちゃったんですな.それから江戸川も千葉県側に確か造る計画にしたと思います.ちょっと,記憶がはっきりしなくなったけど.埼玉県も造ったかな.緊急道路も結局,いろんな曲折がありましたけど,やはりいまだにあれはやってよかったのではないかと思います.もし地震がきたら,やはり復旧の車両にしろ,生活物資の救援にしろ,大いに働くのではないかと思っています.
だから,やはりこういう時代になれば,思い直して東京都側もやっていたほうがよいのではないかと思うのですがね.
日野 今年から東京都側も始めましたか.
高橋 ありがとうございました.それぞれの所長さん時代のお話を承りました.今日は昭和35年以降の所長さんのお集まりですが,内務省の多摩川改修は,大正7年からですので,お集まりの皆さんで,そのころのことについてご存知のことを承れば,大変ありがたいと思います.
多摩川の,いま話題に出なかったことで気がついておりますのは,例えば大正7年から内務省による改修が始まりましたが,その4年前にアミガサ事件がありまして,二ケ領用水の受益地域が水害常習地でもあり,その人たちが500人と記録に載っておりますが,県庁に押しかけて治水を早くやれと大騒動が起きた.その後を受けた神奈川県の有吉知事が実質的にこれを解決する.
明治40年の災害以降,43年,それから大正になってもたびたび洪水があり,直轄への地元の強い要望があって,大正7年にようやく内務省の直轄になった.その間に東京と神奈川の間にいろいろな争いとか,特に大事件となったのはアミガサ事件のようなものもありました.
関東大震災のときに,多摩川はどうだったのだろうか.富永さんに関東大震災のときに利根川の堤防が非常にひどい目にあった話を伺いました.多摩川では関東大震災の後,骨材需要で堤防をかじったという話を,先ほど伺いましたが,大地震のとき,多摩川はどうだったのでしょうか.
それから,直轄区間の話題のみが大体出ておりますけれども,多摩川には小河内ダムの問題,最近ですと環境問題に関連して天祖山の問題がありました.今日は直轄区間以内の話に限ることはないと思います.そんな話題等につきましてもなにか皆さんでご存知のエピソードがあれば,伺いたいと思います.
いままでの所長さん方から出た話題に関連してでも自由に,ご発言いただきたいと思います.小坂さん,昔の話で大正とか,昭和初期とか,小坂さんが聞いた話でも結構ですが.
よく伺うのは金森所長さんが大変名物だったように伺うのです.荒川でも金森さんの奮闘の跡が残っており,多摩川では金森さんが映画を作ったということも聞いています.
なにか,1時代前のことで聞かれた話で貴重な話はございませんか.
関東大震災のときの多摩川
小坂 これは,誰から聞いたかいま思い出そうと思っているのですが.
震災後,それまでは多摩川の左岸,東京都側大田区,あの辺は谷地みたいな所が多かったようです.たまたま,多摩川の改修が,掘削すると全部砂利か,砂礫というか,ちょうど混ぜるといいようなのが出てくる.それで計画以上に掘ったという,これはちょっと定かではないのですが,何百万m3と,とにかく意識的に少し掘って……・
高橋 下流の東京寄り?
小坂 はい,それから,もちろん川崎側も埋めたと思うのですが,それだから,あの辺の工業地帯というのは,多摩川の切り込み砂利と,本来のドロドロと混ざってちょうどよい土地になる.それが,大震災後,本所,深川とか、あの辺にあった工場を疎開する用地にしたのだという話を,誰かから聞いた記憶があります.
これは,遠藤さんとか,あのへんの方々に聞くと,案外覚えていれるのではないかと思います.
それに関連して,多摩川は非常に活気があった.したがって,他の川よりも人材も集まるし,事務所そのものが,非常に活気があったというように聞いております.
もちろん当時は直轄直営で,機関車でポッポと運んだのでしょうから,多摩川の事務所自体が1部隊みたいなことで,非常に活気に溢れていたと聞いています.それ以外には…….ちょっとにわかには思い出せませんが.
有賀 いまの砂利の件ですが,関東大震災の直後,多摩川の全面的な乱掘があったそうです.非常に高価に売れたのですね.それで,きびしく取り締まってようやく収まったということです.
高橋 震災復興工事に使ったということですね,
有賀 はい,手っ取り早いと,いうので,どんどん取って,どんどん運んで行ったと.私のいたときは川の中はもうダメでしたから,川の外を掘るのです.それで山から土を持ってきて埋めましてね.儲かるのです.いい石ですからね,砂利の問題は大きな問題でした.
実は去年,明治14年以降の地図を集めまして,次が明治20何年,それから41年,大正年間,昭和7年,12年と,ずっと地図の上で多摩川の堤防がどうであったか,蛇行流がどうだったかというのを,調べたことがあります.
多摩川の基本的な性格になりますが,ご承知のように江戸時代に,江戸の人口が増えてしょうがない.その水を多摩川から取ったということからもわかりますが,江戸幕府は多摩川というものは農業用水も含めた取水源と考えたと思います.それ以降それが東京都の水道にも引き継がれているわけです.
治水の面からいきますと,囲繞堤方式を取っていたようです.というのはかなり時代が新しくなってもまだ連続堤防がない.また,堤防らしい物もできていない区間があるのです.承知のように,多摩川の西側には河岸段丘があって上半分は渓谷河川と,そして下半分が扇状地河川であり,そのままで海へ放出されているという感じがします.したがって,先ほど,小坂技監もいっていましたが,多摩川は維持区間を重視するのか,上流のほうへ延ばして改修を進めて行くのか,その決心がなかなかつかなかったということは,歴史的な物ではないかと思われます.
いつも冠水する所では,最初は農地保全ということで堤防を造っていたようですが,農地保全だけですと必ずしも連続堤防方式でなくてもよいわけでして,急流河川ですから霞堤や囲繞堤方式でいいわけです.洪水を絶対に1滴も漏らさないという方式は工業地域防御となってからです.住宅,工業地域ですね.そういう目で眺めますと,維持区域として取り上げた区域はこれは東京の蒲田区ですが,それから川崎の工業都市,これを守った区域であるということ.その中に高潮防御は抜けているのですけれども.その区域の上についても,かなり最近まで囲繞堤方式でやった.ところがどんどん人が住みついてきたために,連続堤防方式で防護するようになったわけです.
この間,富士川へ行って,富士川の堤防を見ると,私の時代では富士川は大体甲府盆地を守ればよいのだと,そして市川大門以下合流後はもう谷川であって河幅も狭く,静岡県へ出て行ってしまう.ところが最近の計画ではそういう谷の小さな平地まで人が住んでいるのです.そして,住まわれますとどうしても堤防を造らざるを得ない.ただでさえ川幅が狭いのですが,局部的な堤防を造ろうと計画しています.このように時代の推移に応ずるということは,多摩川にとっても考えられることでしょう.
もう1つ気がつくことは,富士川については,とにかく支川と本川の合流点の処理が非常にていねいにできていることです.小さな川まで導流堤があるのです.ところが多摩川について現在でも浅川はあるようですが,支川と本川の合流部分がそのままの形になっています.これは小洪水,中洪水,大洪水時,大洪水は本川だけですが,中洪水以下の場合に支川もまた自ら硫路を求めるわけでして,しかも本川がかなり洗堀している状態においては.なにかそこに処置が講じられていいのではないかと思うのです.
幸いなことにそういう所は河積が非常に広くなっており救われているわけです.地図を見てそんなことを感じたのです.
もう1つ,先ほど,関東地震のときに多摩川はどうだった?というお話でしたが,東京都の防災会議の委員をやっていまして,地震対策の関係で関東地震のときの記録を調べてみたのですが,砂礫の上にある多摩川の堤防でも地震によってやはり1m程度崩壊し,沈下しています.それは東京都の蒲田区の地域です.
高橋 一挙に沈下したのですね.
有賀 相当な長さに渡りましてね.ご承知のように,液化現象というのは軟弱地盤に起こるわけですから,多摩川の河口は一部は軟弱であっても荒川河口等とは比較になりませんですね.そういう所でも1mなにがしかの沈下があったわけです.そういう記録があります.
高橋 関東大地震の多摩川堤防への影響と,いうことについてなにか,レポートとか,報告があるのでしょうか.
有賀 あります.断面も出ております.震災調査会のレポートの河川の項を見れば出ております.富士川から酒匂川,それから荒川とか,利根川とか.
もう1つ,技監もいっていたようですが,治水防災意識という問題です.ご承知のように,「災害は忘れたころにやってくる」という名言があるのですが,洪水防御を計画,指導するほうも,地元も,洪水や災害があると,そこで真剣になられて議論され,努力される.ところが災害が収まって平穏時代が続きますと,両方とも意識が衰えてくる.両方ともというのは失礼でして住民は衰えるわけですが,官は衰えないのです.両者にはかなりの落差が出てくる.ですから,災害直後を担当された所長さんは大変お気の毒で,後始末に追われる.一方,ずっと災害のないときの所長さんは,また別の苦労をされる.そこで防災意識というのはなにかということを分析してそれを常に計量化しておく.例えば防災意識係みたいな係を作っていてですね.そこで,その意識の落差をお互いに認識し合う.それが合致するように相互に努力して行くということが望ましいと思います.
鶴見川について,事務所から防災意識の調査を依頼され,やらしていただいたのですが,鶴見川の流域では都市開発が非常に急速に進んだために,水害を知らない人が多く増えてきて意識がゆがんでいるような感じがします.
都市化というものが,どこまで影響していくかという,単に汚染ということだけではなく,心理的なところにも影響が出てきているのではないでしょうか.
高橋 寺師さん,後輩の所長さん方のお話を聞かれまして.何かご感想がおありかと思いますが.
必要な河川管理の啓蒙運動
寺師 先ほども申しましたように,私が勤務していたのはふた昔前にもなりますから,歴代の所長さんの話を聞かしていただいて本当に昔日の感があります.
先ほど,ちょっと申しました堤防を前へ出した話ですが,実はある工場の土地が堤外まであるということでその前面に堤防を造る破目になったということです.
数多い占用物件の中には,具合の悪いのもいくつかありました.河川管理は非常に難しい問題ですが,特に都市を流れる河川に問題が多いのは止むを得ないことと思います.多摩川も,本来の治水,利水の目的の他に,貴重な河川空間としての利用という問題を考えなければならなくなってくることは自然の成り行きだと思います.
このようなことから多摩川河川環境管理計画が立てられたと思いますが,運営に当たっては,一般の人々に対して河川の適正な利用についての理解を得るための啓蒙運動が必要だと思っています.
河川管理も,かつての地方自治体の管理から国の管理に移り,治水,利水の機能を確保しながら河川環境を保全整備をするうえで非常な進歩だと思いますが.利用する側は普段なにごともなければややもすると治水,利水の点まで配慮が及ばないこともあるかもしれません.
河川の恐ろしさは多摩川沿川の方々はすでによくおわかりとは思いますが,多摩川河川環境管理計画に沿った啓蒙活動は重要なことだと思います.
高橋 多摩川には,この20数年いろんな事件がありますが,岡田さんのときの破堤が一番大事件だったと思うのです.先ほど,岡田さんは大変謙遜されて経過報告をされましたけど,多分他の人にはわからないいろんなご苦労があったかと思うのです.あのとき,いろいろ資材を集めるとか,交通状況も必ずしもよい場所でもない.話題を提供していただけますか.
水害後いっせいに出た陳情
岡田 水害としてもちょっと特殊な水害というのですか.当時の普通の災害復旧ですと,ああいう状態になれば破堤,氾濫して湿地の中で仕事をするというのが通常の災害復旧ではないかという感じかするのですが.あの場合は回りが全部ドライで,平常な生活がある程度営まれる中での災害復旧工事ということです.
そこを離れれば,平常な生活が営まれる中で災害復旧をやるということで,しかも,資材の搬入の面では道路関係が非常に交通量の多い所です.ブロックで仮締切りをやったのですが,そのブロック集めを,最初は近くから持ってきたのですが,最終的には久慈川ですか….
高橋 遠くはどの辺からですか?
岡田 常陸の……,久慈川ですか.久慈川で導流堤工事をやっていて,そこのブロックを持ってくる.局でもいろいろやっていただいたのですが,私たちも直接県警本部長とか,交通部長とかに電話して,資材の輸送のための交通の規制ですね.
そういうことをやってくれと,いろんな話をやったり,あそこを爆破するのにもダイナマイト……,最初は自衛隊がやったのですが,あれはですね……
高橋 うまくいかなかったですね,最初は.
岡田 水位の高いときにはまだとてもやれないということで反対していたのですが,自衛隊が河川管理者のやる範囲外の所で,水防活動としてやるについては,われわれとしてもなにともいえないじゃないかという,そういう感じの判断がありましてね.
高橋 堰の所は管理者の許可がなくても水防活動の一環ならばいいわけですか.
岡田 水防活動として自衛隊がやったのですが,あれはTNTで,カバーをうまくかぶせなかったせいもありましてね.まさに爆風が飛びまして……
高橋 爆風で住宅のガラスが割れたと聞きましたが.
岡田 ガラスが割れて,窓枠が黒くなりまして…….あの跡始末は水防活動として都で処置していただいたのではないかと思います.いろいろアクシデントがありました.
それと,さっき小坂技監がいっていましたが,水害を受けた3カ月後ぐらいですか,東京と,川崎側,沿川の市町村から,いっせいに,危険個所と称する所の陳情みたいなのが出まして,その後,逐一,私も全部回って見たのですが,大半の所は災害申請をやって復旧する個所だったのですが,一部の所ではそれこそ蛇籠の止め杭が多少傷んだような所とか,それこそ非常に繊細に見て,町村長名で出てきました.
それから,さっきの河口の高潮の区間についても,多摩川はああいうことだけど伊勢湾台風がきたようなときにはどうするのだ,という話で,あそこもかなり強烈な陳情がございました.
確か翌年はそういうことがあって,いろいう予算の関係もありましたが,羽田との間の何川だったですかな?海老取川,あの付近の高潮堤,下流から整備すべきだということで,漁業組合関係が難しい面がありましたが,そのへん割りと収まりましてある程度延長できたというわけです.
山田 海老取川は都でやったのではないのですか.
岡田 弁天橋まではわれわれでやりました.
山田 弁天橋までですね.あれから向こうは都でやったのですね.
岡田 そうですね.水衝部は,ほとんど,やられたといっていいですね.たまたま破壊が拡大して人家まで及んだということです.ああいう状態はそれぞれの個所全部ありました.私もあそこが壊れるとは夢にも思っていなかったのですが,水衝部でない部分ですね.水衝部については,かなり,ガッチリ固めてあるのですが,水裏の個所で,予想を超える話.
非常に幸いだったのは,地元の被災者の方とは,かなり意思疎通ができまして,最後の流失した所の上を原型に復旧したのですが,災害復旧ではなかなかできないということだったのですが,掘れたまま置いておくと樋管の設置もいるのだとか,そういう理由でそのへんと経済比較して,災害復旧の一環として発注したのですが,最終的に地鎮祭をやるときには私らも出て玉串し奉典とかをやらしてもらった.流された方は,さっきちょっと話が出ました,かなり名士の方がいますが,当時はもう川は恐くなったから,もうちょっと山のほうに行くのだといっていたと記憶しております.
玉光 その前は大変だったのです.ある住民は,しょっちゃう事務所にきては堤防の草を刈るなというのです.虫がいなくなるのでね,それであのときは勝田政男が出張所長でしたが,横山さんの家の前で残っていたのを最後に刈ろうとしたら,足に抱きつかれましてね.そこだけは刈るなと.いつまでも残せといって.随分大変だったのですよ.
その後はそんなこといわなくなった.やっぱり堤防は大事であるというのがわかったのでしょう.

まあ私らも忙しくて半日ぐらいもう相手にするなということで.だけど全然帰られませんのでちょっと集まってもらって,これは天災不可抗力だから誰のせいとか,そんなことではありませんよ,といったら安心しく帰って行きました.
高橋 富士野さんのころからでしょうからね,そういう自然保護運動が活発になってきたのは
富士野 そうです.
山田 最初に横山さんが事務所に見えたのは昭和43年の夏ごろだったと思います.
高橋 そのころからなのですか.
山田 狛江の六本松付近の堤防の裏側の砂利採取について,砂利屋さんが申請を出した.そこは河川の保全区域になっているので,河川管理者の許可がないと掘れないわけです.その砂利採取の許可をするなということで,事務所に見えたのが最初と思います.
ところが砂利採取の許可は河川管理者に申請する前に,農地法による農地転用の許可かいるわけです.砂利を掘って,後を畑に転用する申請です.
それで農地委員会の許可がない限りわれわれは許可しません.といったら帰られました.結局は掘らなかったです.農地委員会が許可しなかったと思います.
高橋 富士野さん,なにか住民との対応でさらに話はありませんか.
富士野 横山さんとは割りと仲よくやったのです.その堤防の草を刈る話でそんなに草が大事ならあなたの家へ移してあげますから,どこに植え替えたらいいですかね.というような話もやりましたけど,基本的にはかなり仲よくやっていたのです.
さっき話した,日曜日のうちに堤防に桜苗木が百何十本だか植えられていたことで…….
高橋 場所はどの辺ですか.
富士野 勝田君の所だから調布堰の上のほうです.だれがそれを植えたのかは,ビラをまいて植えたものだから,わかっています.“地球に緑を”とか,なんとかってビラに書いてあるのです.
高橋 どの辺に植えてあったのですか.
富士野 堤外ののり尻.
高橋 何本ぐらいですか.
富士野 120〜130本ではないですか.
高橋 一挙に植えたのですか.
富士野 一挙に.
高橋 植えるほうも大変でしたね.
富士野 ビラまいて人を集めて植えたのですからわかっているのです.しばらくしてその会に電話してあんたが植えたのですかと,話をしたわけです.そうしたらいや私ではありませんというのです.それでは関係ないんですね.というわけで.
それではどうしょうかということで,いきなり引き抜くわけにもいかないので,市の広報紙にこういう忘れ物があります.お気づきの方は何月何日までに京浜工事事務所に連絡するなり,取りに来て下さいと.そういうのをやって2週間ぐらいおいた.
高橋 そうしたら…….
水質をどこまでやるで河川管理を
富士野 当然だれも取りに来ませんから.それで堤内の河川敷の空いている所へまとめて植えて,また,広報紙でここに植えてありますから,どうぞ取りに来て下さいと.半月以上かかったのです.それを片づけるのに.
もう1つは,水質でもいろいろ問題があったのです.さっき調布堰の所で泡がいっぱい飛んでいるという話がありましたけど.あのころは,世論も多摩川の水を汚しているのは工場からの廃水であると.そういう感じが非常に強かったのです,それでそのままにしておいたらまずいということで,泡の出ている個所全部をねらって,この泡は家庭の使っている洗剤のせいです.みんなで多摩川をきれいにして下さいっていう看板を作って,あちこちに立てたのです.ちょっと,嫌がらせをやってみた感じですね.家庭廃水が多摩川の水質に影響していることをPRしたくてやりました.
それが看板と一緒に新聞に出ましてね,そのほか東京都からだったと思いますが,さっき小坂さんがアユの話をしましたけど,多摩川にアユを昇らせる方法かないですか,という話がありました.それは簡単ですよ.小河内ダムから常時,10m3/sぐらい流しなさい.そしたら,直ぐアユが昇りますと話をしたら,それからなにもいわなくなった.全部羽村で水を取っちゃって,あと多摩川に流れているのは東京都の下水だけではないですか.浅川の水が入ってくるからいくらかきれいになるのです.大体下水の排水管の代わりに多摩川を使って,とんでもない話ではないですか.こういう話をして,ついでに小河内ダムの話をしたらなにもいわなくなった.
それで,先ほどの下水を礫の中に流して浄化しようという話につながっていくのです.荒井君が測試の予算要求までやったのではなかったかと思いますけどね.
玉光 あれから後,直ぐ作りました.
日野 7〜8年ぐらい実験のデータがあります.
玉光 あれは,岡田君のときじゃなかったかな.
岡田 玉光さんのときにできたんです.
富士野 予算要求,測試でやったかな.
山田 北多摩1号排水路の所ですね.
玉光 子算要求は測試でやったのです.
山田 実験していましたね.
日野 いまでもまだ実験やっています.
玉光 意外に効果があるというのがわかったのですね.
山田 いま,小規模の下水処理場にあの方式を使おうとしています.礫間浄化,ただし下からエアーを吹き出すことにしています.人口1,000人ぐらいの小規模の下水処理場には非常に有効といわれています.私も業界に移って,下水処理関係の仕事もやっていますので,非常に興味を持ってみています.
富士野 結局,河川管理者は水の量の処置はかなりいままでやってきたと思うのだけど,質のことをどこまでやるかというのを,もう,そろそろ,考える時期ではないかと思うのです.
玉光 それは,去年,河川審議会の環境委員会から答申をもらっていて,どう実施に移すかという議論を,いまやっているところです.しかし一部は,もう礫間浄化あたりをやってみよう.本格的に多摩川でやろうとしているようです.
富士野 多摩川であそこまでやった.川は魚が住めなくてはいかんとか,なんとかというイメージがあるのならば,そこまで河川管理者がやってもいいのではないかと思うのです.それをどうやるかは,モデルとして多摩川がやってみる必要があるのではないかな.
玉光 どこまで監督するかというのもこれも議論があるのです.
富士野 河川管理者が金をかけてでも水質を戻してやる.すでにそれが始まっているっていうことでしょう? いまのところはね,
玉光 いまの本格的な話はそうです.
富士野 それから,排水樋門やなんかでも,ただ,排水口から水を流していますね.少し,階段工みたいなのを付けるかなんかして,曝気を多くしてやっただけでも相当水質はよくなるのではないかなと思うのですけどね,それはどっかでちょっとやったね.
有賀 河川法の河川の管理の,流水の中には当然,水質も入っているのです.
富士野 入っているわけです.
有賀 いまいったことが入っているのですけどね.
近藤 水害が瀕発している現状で,水害被災者の立場を考えると限られた治水予算の中からどこまで水質改善を重視した予算化をするかという割り切りがなかなかできないのだけれども…….際限がないと,治水課長さんはお困りになるけれども.
玉光 子算化はできないことはないのですがね,でも全体の予算が少ないものですからね.安全対策に回っちゃうのです.快適なほうに回らないわけですよ.
有賀 でも耐震護岸ですか,地震対策のお金ですね.それなんか東京に地震がくるというのでついたでしょう? 社会の反映ですかね.
玉光 そうですね.しかし,総枠が限られているものですから範囲は限られていますね.あの予算でも危険地域にポンプを付けたりする程度のもので.予算項目が多くなるだけじゃダメなのです.全体の枠が膨らまないと.ところがなかなか全体で絞られてくるものだから大変なんです.
有賀 やっはり国民の意識が高まることが必要ですね.
玉光 本当ですね.意識が高まるといえば先ほどもありましたけど,1昨年小貝川で水害があったでしょ.そうすると,その次の年,昨年利根川に相当のそれ以上の水,1mぐらい上の水が2回出ましたが,そのときの水防対策は,全然動きが違います.小貝川のときはしばらく水が出ていない後ですから,ピークをちょっと下がったら水防団を解散したのです.その直後です.堤防が破れたのは.
ところか去年は真剣に水防やっていました.
高橋 何万人と水防に従事したそうですね.
玉光 何万人と出ましてね.
高橋 話は違いますけど,小山さん,先ほど伺った川の中の道路の話の結末はどうなったのですか.
河川環境管理はできるだけ多くの人と
小山 あの話は,円満といいますか,道路局長の高橋さん(現道路公団総裁)まで話が上がりまして,確か現地を見に来られた記憶があります.
河原を道路にする突破口を開かれると際限がなくなるし,川の本来のあるべき姿を保っていきたいということをはっきり申し上げた.
それから,2車線幅しかない天端道を無理矢理に,3車線に広げました.表のりの1.2mの余裕高の部分をいっぱいコンクリート擁壁を立てて,裏のりも広げました.裏のり尻は直ぐ民家がつかえているのです。
ともかく3車線にして,時差信号を導入し,産業道路の流れを一方通行にして,246号からは右折禁止と,いろいろ工夫し,一方では河川敷地の高水敷部分はすでに川崎市の運動公園ということで整備する計画があったものですから,遊ばしておくとそういう問題が起きるのだというわけで,早速工事にかかってもらいました.
抜本的には,現在もうでき上がっていますが,バイパス橋の促進ですね.あれを完成してもらうことで最終的には解決するということだったのです.
河川管理に関連して忘れもしませんが,赴任した当日山田さんから引き継ぎとして,調布の石原地区の官民地の境界問題で,自分の所有地だとして河原にバラック建てて頑張っていましてね,それを代執行をやるために作業服で着任したものです.
羽田空港の中にあった航空食品の会社が,当時,爆発的に飛行機の発着量が多くなっていて,需要に追いつけなくて施設を拡充したいと.どうしても河川側へ出たいわけです.ところが占用準則が設定されて,営利を目的とするものは一切勘弁ならんということになっているので,板ばさみになりましてね.愚図々々しているうちに,羽田から成田へ移りましたので,まあよかったと思いますが.
どうも,当時から,川へ向かっての沿岸からの厳しい注文といいますか,攻めが多摩川には付きまとうのです.いまでもそのはずですが.やはり,河川管理者の非常にけなげな奮戦努力も結構ですけど,できるだけ,良識のある人たちを巻き込んで,合意を得て,決まる形が理想でしょうね.幸いにして環境管理計画が完成して,いま,事業が着々進行しているわけですから,いいのですけどね,
そういう意味では河川管理者にも限界があるような気がします.
高橋 どうもありがとうございました.
あと一言ずつ簡単に,ご経験並びに,今日,お話の中から,今後の多摩川のあり方とか,注文とか,長い目で見て,20世紀の終わりから21世紀にかけての具体的提案でも,先ほど,いい残したこと等,一言ずつお伺いして閉じたいと思います.
では,寺師さんから一言ずつ,お伺いいたしたいと思います.
21世紀に向けての提案
寺師 約1年3カ月の京浜工事事務所勤務の後は,間接的にも多摩川に関係する機会がなく,今日に至っていますので,いわば相当のブランクがあります.したがってあまり迫力のある提言を申し上げることができませんが,過密都市の中における多摩川の使命といいますか,治水,利水上の問題だけでなく,貴重なオープンスペースとしての役割は今後ますます重要性を増してくるものと思います.市民の憩いの場,体育向上の場としてだけでなく,災害時の避難用地としても貴重な存在であるし,市民と多摩川との触れ合いの場を提供することによって川に親しみ,河川愛護の念を強めることにもつながるものと思います.そうして多摩川の持つ貴重な存在価値が今後とも十分に生かされるよう願って止みません.
有賀 先ほど来,チョイチョイお話しましたので,もう尽きていますが,いま,学生を教える立場の者として,河川工学というものをいわゆる水理学直結とわれわれは教わったような気がしないでもないのですけれども,非常に広い接触面を持っている.いわば,地域の学問であるということで,そういう観点から少しずつ実例について学生と話をしているのですが,現場に立っている所長さんは本当に,かつてなんの苦労もなく工事をやったときと,大変違った苦労をなめられていると思いますが,ご努力を積み重ねて,河川に対処するあり方を示して下さい・
今日の配布資料を拝見しますると,広い分野に渡っているんな方々が,多摩川に関心を持たれて執筆されておられ,高橋先生がその総括をされているという.こういうこと自体,大変喜ばしいことだと思います.今後もどうぞご努力願って次代の人々にも伝えていただきたいと思います.
川本 今後の問題という話でございますけれども.
お二人からお話があったように,私の時代とそれからいまの所長が非常に苦労してやっている.あれだけ発展してきた時代と隔世の感があります.そういったことで,先ほどもお話がありましたけれども,多摩川は,治水と利水と環境という,いま,われわれが考えている,河川の持っている機能の3本柱,河川行政の3本柱を,最も現実の姿としてうまく描き出す好個の典型的な河川,全国の中でもそういう河川ではないかと思っています.
一方では一時は自然保護団体とか,なんとかいって相当われわれからいえば暴走したような主張をなさるグループがあって,例えば治水は置き去りにしてでも自然を守れとか,そういうような方々があった時代もあったようですけれども,最近,度重なる出水によって,だんだんと沈静化というか,いろいろと意識も変わりまして,調和を保つという方向へ向いてきているようです.
そういったことで,これからの日本の川の持つ,いろんな姿の理想を表す川であるだろうと.そういう期待を持っていますし,また,そのための方向への努力を1つお願いしたいと思います.
山田 寺師さん,川本さんのいわれたことで,もう私の考え方も尽きるわけです.
この前の狛江の災害を考えて,二度と多摩川では災害を起こしてはいけないと思います.特に,ここにいただいた資料によりますと,私たちがやっていた当時では,河道計画流量は6,000m3/sであったのが,現在では7,000m3/sになっていますし,上流のダムで調節する計画になっているようですが,そういう計画を1日も早く実現するように,努力をしていただきたいですね.
そういう計画を持っていながら,建設省がなにも手を打たなかったために,また災害が起こったといわれないために,流水の正常な機能の維持,水質問題でも上流に一定の容量のダムを造らない限りは,なかなか環境基準も達成できないと思います.
川本局長がいわれるように,私も日本のモデル河川としてほしいと思います.
もう1つ,付け加えますが,桜の木を植えた話がありました.私は多摩川の所長の後,木曽川上・下流の所長をしてましたが,あの付近は昔から水害に悩まされていて河川に対する関心が高いところです.長良川の堤防にだれかが桜の木を植えましたら,すぐ地元の人が事務所に連絡してくれます.要は河川に対する一般の人の認識の問題が大事です.特に都市化が進んでくると,いままで多摩川のことを全然知らない人が全国から入っているわけです.そういう人たちに対する防災知識といいますか,河川に対する知識を大いにPRされる必要があると考えます.
河川の防災知識のPRを
小山 もう皆さんのいうとおりで.ちょっと付け加えれば,いまの非常に立派に改訂された工事実施基本計画の内容にできるだけ,近づく努力をしていただきたい.特に上流のダムの問題は,気の遠くなるような困難な問題を抱えているのでしょうけれども,一庫ダムのように兵庫県の猪名川で町の中にダムを造っているような実例もありますし,高水を基本的にカットできるのはダムしかない.河幅を広げていくのは大変困難なことですから.非常にしんどい話ですけれども,そういう方向でお願いできたらと強く感じています.
田 諸先輩がいわれたとおりですけれども,電車で通ったり,車で通りましても,多摩川は本当に立派な川だなというような気持ちがいっぱいです.先ほど,河川局長のお話にあった,多摩川は都市河川としての模範となるような川にしたいといっておりましたけれども,そのようにお願いしたいし,また,地域住民の要望,プレッシャー等,いろいろ大変だろうと思いますが,立派な環境整備の計画もできていますし,局長がいうように,治水を基本とした,環境整備と調整の取れた河川にしていただき,現所長さんをはじめ職員の方,大変でしょうけれども,これからも一層のど努力をお願いしたいと思います.
富士野 さっき,ちょっと申しましたけど,とにかく都市の中の空間という意味で,どうしても川というのは多目的に見られてしまい,また,利用されるというのは現実の問題だと思いますから,それで環境整備の問題とかが出てくると思うのですが.それは,もう皆さん方がいままでいってきたからそのとおりだと思います.
さっきもちょっと申しましたけど,河川管理者が自分の責任において,水質をよくしようという,今度の多摩川でやる事業ですね.本当に管理者としてかなり決断を要することだと思うのです.これから,やはり河川というものをみていく場合に,1つの新しい方向ではないかと,こう思います.
問題は,どこまでやるのだということと思うのです.そのへんは,この事業を進めながら,1つ多摩川で考えて決めていただければ非常に嬉しいことと思います,
少し次元の違う話ですが,先ほど申したように,私のときに3回ぐらい洪水ががあったのですが,いまから10年前に,浅川でも被害があって,浅川の災害復旧もやったのです.現在はかなり変わっているかもしれませんが,そのときには浅川は,非常に危ない川だと,未改修の川だ,そう思った感慨がいまも残っています.もし,あまり改修が進んでいないのだとすれば,浅川についても相当注目しておかないと,今後問題が起きる可能性がないわけではないと思っています.
玉光 治水のことに絞っていいますと,多摩川の本川はかなり容量があるようにみえるわけですが,ところがやはり安全性に対する要求というのは,どんどん上がってくるわけで,なんとか努力して安全性を少しでも高めるように考えなくてはいけない.多摩川に限ったわけではないのですが,多摩川もその本川以外に支川があります.浅川もまだ改修しなくてはいけない.その辺の流域がかなり開発されています.
小河内の上流は水源池で保安林になっていますから,割りに乱開発はないかもしれない.その流域がかなりの部分を占めるとしても,他の所でやはりいろいろな流域の変化に応じて,安全度が下がる傾向があるわけです.
ですから,いま,鶴見川が総合的な治水の考え方のトップをいっているように,同じ事務所ですので,そういう大流域といえども,小さい所をこのくらいはいい,この辺の開発はいいというのではなくて,開発といいますか,少しでもそういう流量を増やさないというようなことから,多摩川全体の流域を見て,流域管理といったらいろいろあるでしょうが,いま,われわれがやろうとしている総合的な治水の考え方を,大河川についてもやらなくてはいけない.まず,最初にやらなくてはいかん川ではないかと考えています.
幸いに,皆さん,この事務所の人は鶴見川で総合治水計画に慣れていますから,大いに多摩川も一緒にやってもらいたいと思います.ただし,鶴見川みたいに,あのときは最初でしたから,例えば港北ニュータウンみたいに防災調節池は仮の物だ.下流の改修ができたら,あれは潰すとか,そういう考えではいけないと思うのです.だから恒久的な考えで,その流域の保水機能を残すとか,遊水機能を残すとか,それらを考えた,理想的な総合的な治水のやり方をやってもらいたい.
それを通して,流域の人とも,コミュニケーションができますから.いよいよ,治水にも関心を持っていくというように,うまくいくのではないかと思います.
以上,1つだけ,大変理想的なことを申しまして…・
岡田 大体出尽くしたので,特に付け加えることはありませんが.非常に長期的に考えれば,多摩川で常時,水泳でもできるというのですか,きれいな水が流れているというのが本当の多摩川の基本的な姿ではないかということです.
短期的に考えますと,治水対策ですね.これはかなり膨大な計画が,現に持っているわけですけれども.これをこの東京の近くの多摩川をうまく活用して,やはり治水の予算ですね.金がないと,頭だけ回していても実際にはなかなか実行行為が伴いませんので.多摩川を象徴的に利用しながら,治水関係予算をもっと増やすような,そういうテコにするようなことを,多摩川だけをよくするだけではなくて,全国に及ぶというか,そういうところまで多摩川をうまくいろんな施策の象徴として活用していいのではないかというふうに思います.
水質管理は住民と一体で
近藤 多摩川は鶴見川と並んで都市河川といわれていますが,タイプはかなり違う川でして,多摩川の特色というのは氾濫区域の都市化という問題が課題であると思います.そのへんの問題がしばらく洪水かないと,住民につい忘れられてしまう.それから,住民の世代が変わるということで,水防意識が変わってしまうということとなり,つい治水の安全度が置き去りにされてしまいます.したがって,このへんは最重点に今後も考えていく必要があると思います.
もう1つは,水害でも,すぐテレビで実況中継されるとか,河川管理者のすることに住民の関心が非常に強いことです.環境問題も,1つは自分の庭がないものだから,その代わりに多摩川を借りて,私の庭だというような意識が住民にあって,ああしろ,こうしろと注文をつける.自然にしたいとか,道路にしたいとかという意識が出てくるのだと思います.そうではなくて,これはみんなの庭だという意識を持って,住民自体も変わらなくてはいかんだろうと思います.そうなると,ゴミを捨てることとか,多摩川の堤防を使ってモトクロスをやっているとか,そういったものを河川管理者が警察権で取り締まるのではなくて,住民自体が自粛するなり,やめさせるなりして,多摩川を愛するという公衆道徳確立していかなくてはいけないと思います.
例えば,水質の話も,先ほどから出ていましたけど,結局,汚しているのは住民自体なのですから,住民がどうやれば,どう汚れてくるかというメカニズムをわれわれが示すことによって,水質管理を住民が一体でやっていかなくてはいかんのではないかと思います.河川管理者が莫大な税金を使ってきれいにして,住民はかってに汚している,というシステムでは一向によくならないと思います.多摩川の空間管理はマスタープランを作りましたけれども,今後はさらに水質も含めた管理をやっていかなくてはいかんだろうと考えます,その点で,いまの流総計画は左岸は東京で,右岸は川崎市が立ててやっていますけど,それを統括する計画を河川で作る時期にきているのではないかと思います.ちょうど環境管理基本計画の中に,水環境管理というものも含めたから,それらも,これから策定していく必要があろうと感じます.
岩井 いままで,いわれたことで,ほぼ尽きているのですが,特に岡田さんのいわれたことと同じようなことです.
確かに全国レベルで考えれば,多摩川の整備水準というのは高い.しかし,全国的に見て,整備の進んでおる多摩川ですら,さっきからもいわれていた高潮対策,富士野さんのいわれた浅川の問題,堰を含めての河道の安定化の問題,まだまだやることはいっぱいあるわけです.
ですから,そのへんをどうアピールしていって,治水予算を伸ばしていくのかという課題があると思います.
特に多摩川の場合には,環境問題が非常に問題になっているわけで,沿川の自治体のみならず,住民の皆さん方が非常に熱心です.それだけの要請があるのだろうと思うわけですが,環境整備についても大いに力を入れていかないといかんわけですが.その場合に,限られた予算の中でわれわれやっていくわけですから,沿川の自治体,沿川の民間団体,都市計画サイド等の協力,これは資金的な協力も含めていってますが,そういった協力を得ながら,整備を進めていく必要があるのではないかと感じがしています.
矢野 1つの時代感覚として,ちょっと前に,「やさしさの時代」という言葉がはやりましたけども,最近の国内,国際情勢の厳しさを考えますと,そんな,なまっちょろい話ではなくて,むしろ,「したたかさの時代」といったような感覚が必要なんではないかということを最近考えています.

多摩川のダムの難しさは,補償問題もさることながら,利水の位置付けというのが非常に難しいわけです.水資源開発の位置付けが,難しかったために,多摩川のダムがいままでうまくいかなかったわけですが,昭和58年度から渇水対策ダムという新しい事業制度も創設されるということになっていますので,新しい観点から,ぜひ施設の多様化,治水施設の多様化を進める意味に置いて,ダム事業の推進を図っていただきたいということを申したいと思います.
日野 多摩川に関する治水,利水,環境からのいろいろな,諸先輩のお話を聞かしていただきまして,京浜工事事務所で担当している者としては,参考にさせていただいて,これからの仕事にぜひ反映させていきたいと思います.今後もご指導いただきたいと思いますが.
歴代の所長さんに,予算面でお願いするというわけでもありませんけど,なかなか多摩川が少ないということは,非常にいいにくい立場にいる方が多いわけで,これは現職しかなかなかいえないのではないかということで,最後にお願いするわけです.
昔,先ほどの予算書なんか見ていますと大正時代なんて130万.これデフレーターをかけてみますと1,000倍ぐらいですから13億ぐらいで,大体いまの予算と同じですが.当時の国力からしますと,随分投入していたような時代がありますし.大体,昭和40年代もそのくらいになると思います.
ぜひ,ソフト面のご指導をいただきながら,やっていきたいということです.
高橋 大変,長時間,ありがとうございました.
今日は,歴代所長さんのお話をいろいろ承りまして,大変勉強になり,本当にありがとうございました.