第2章 旧職員座談会 多摩川の想い出
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第2章 旧職員座談会 多摩川の想い出


 と き 昭和58年10月5日 
 ところ 川崎市登戸田中屋

      旧職員座談会 出席者名簿
山上岳人  大正11年〜昭和17年
青木彌太郎 昭和6年〜昭和46年
吉沢貞之助 昭和10年〜昭和35年
石井浅次郎 昭和13年〜昭和46年
勝田春吉  昭和13年〜昭和51年
多賀義重  昭和14年〜昭和16年
大貫貴夫  昭和16年〜昭和41年
吉田安夫  昭和16年〜昭和41年
青木利吉  昭和33年〜昭和37年
秋本 勇  昭和20年〜昭和36年
中山直次  昭和34年〜昭和44年


日野峻栄  京浜工事事務所所長
宇塚公一  京浜工事事務所調査課長
森岡 康  河川環境管理財団東京事務所所長

司会
高橋 裕  (多摩川誌編集委員長)

 森岡 ただいまから多摩川誌のOBの座談会を開催させていただきたいと思います,

 ご案内のように,昭和54年度から京浜工事事務所で,治水・利水編の外に社会・経済・歴史等も踏まえた「多摩川誌」を編集することになりました.つきましては,東京大学の高橋教授を委員長といたしまして編集をしてまいりましたが,今回のこの座談会をもちまして一応の原稿づくりを終わりまして,いよいよ今年度末から印刷に入るというところまでこぎつけたわけでございますが,「多摩川誌」をつくるに当たりましては,先輩の方々のご意見,あるいはご感想,そういうものを記録しまして,「多摩川誌」の一頁を飾りたいと,かように思い,委員長自ら座談会の司会をしていただけるというようなことになりましたので,本日お集まりいただいたわけでございます.

 事務局の我々も鋭意これから完成するまで努力したいと思いますが,本日長時間になるかと存じますが,ご協力のほどをお願いしまして,挨拶のことばといたします.

 日野 今日は多摩川の思い出を語っていただくということで,当時多摩川に関係しておられた方々,お忙しいところお集まりいただきまして,どうもありがとうこさいました.

 「多摩川誌」の一環で,やはり高橋先生に司会になっていただきまして,歴代所長の座談会や編集委員の座談会を別途持っていただきまして,今日のこの座談会で三つ座談会ができるわけでございます.それを「多摩川誌」の第10編に載せさせていただきたいという企画でございます.

 高橋先生も非常にお忙しいところをどうもありがとうごさいます.

 皆さん,当時の思い出で我々後輩にぜひこういうことを言っておいて参考にしてもらいたいというようなことを,何でも結構でございますから,お聞かせいただきたくよろしくお願いします.

 宇塚 先日,電話でこの座談会のご出席をお願いいたしました京浜工事事務所の調査課長の字塚でございます,よろしくお願いいたします.まことにお忙しいところお集まりいただきましてありがとうございます.

 森岡 では,座談会はじめさせていただきます.高橋先生,よろしくお願いいたします.

 高橋 ご紹介いただきました高橋でございます.今日はよろしくお願いいたします.

 ご案内等が行っておるかと思いますが,今日,京浜工事事務所の大先輩の方々,大勢お集まりいただきまして,それぞれお勤めいただいたころの多摩川に関連したお話,多摩川の様子,あるいは特に思い出に残る印象的な出来事がありましたらご紹介いただきたいと思います.それから合わせて,当時の事務所の所長さんとか同僚の方,あるいは事務所の建物,あるいはその頃の事務所で使われていた車とか機械,そんなことで印象に残るようなことがございましたら承りたいと存じます.

 我々事務局側としましては,そのようなことに関連して,それぞれ皆様方から貴重なお話を承りたいといぅのが趣旨でございます.

 それから,全体の目次案はもうお手許に行っておるかと思いますが,今日の座談会をコンパクトに集約して,「多摩川誌」の最後の編に載せさせていただきたいと考えております.

 いろいろなお話をそれぞれご用意いただいたと思いますが,そのご用意いただいたものを読んでいただいても結構ですし,読みながら何か思い出されれば付け加えていただければ大変有意義だと存じます.

 それから,私,若輩でございまして知らないために失礼など質問があろうかとも思いますが,ご容赦いただきたいと存じます.皆様方に比べればいまだに若輩でして,大変せんえつでございますが,よろしくお願いします,

 議事進行は,事務所にお勤め始めた時期がお古い方からお願いしたいと思います.そういう順序でまいりますと,大正から今日に至るまでの多摩川事務所の裏話も概ね時代順にのっとって伺えるのではなかろうかと思いますので,一応そういうことで進めさせていただきます.

 山上岳さんは大正11年からでしょうか.

商売になったキレイな多摩川の水

 山上 11年にまいりました.

 高橋 では,よろしくお願いいたします.

 山上 いちばん古いことなんですが,ご参考になるかわかりませんが,ちょっと感想的なことを書いてまいりましたので,それを読み上げさせていただきます.

 私は大正11年10月,18才の時,内務省東京第2土木出張所の所長真田秀吉殿を訪れて上京しまして,即日,臨時雇と辞令をちょうだいしました.日給が1円10銭でごさいました.

職員の中ではいちばん若くて,いちばん給料も安かったようです.

 それで,それから多摩川改良事務所の従務を命じられまして,昭和17年11月,内務属官で依頼退職するまでの21年間,終始一貫多摩川のみ勤務して一度も他への転勤はございませんでした.

 今回,多摩川誌編纂にあたって昔のことを一言ということでございますが,60年前と現在ではおよそ隔世の感がありまして,当時を偲び,感無量のものを禁じ得ません.

 その頃の事務所と申しますと,神奈川県橘樹郡御幸村字小向地先に設置されておりまして,所長は辰馬鎌蔵,ご存知ですね.

 高橋 お名前は,よく存じ上げています.

 山上 辰馬鎌蔵,内務次官をやった人です.東京土木出張所所長もやりました.今の地建局長ですが.

 その下に中原工場と御幸工場と六郷工場の3工場がありまして,中原工場は金森技師が主任,御幸工場は井上孝夫技師が主任,六郷工場は田村勝好枝師がそれぞれ主任として担当されておりました.

 私は六郷工場で田村主任のもとで事務を執ることになりました.当時は原則的に直轄工事のみで,現在のような請負制度は全然ございませんでした.

 その頃の多摩川と申しますと,文字通りの清流であって,六郷橋は長さ70〜80mぐらいの木橋でございました.低水路にのみ架けられておりまして,六郷河原の旧堤から橋までの間は高水敷に砂利を敷いた幅10mぐらいの道路で,その回りはうつそうと葦が茂っておりまして,小鳥のさえずりを聞きながら通り,夜などの一人歩きはさびしいほどでした.

 六郷橋のほとりには,よく筏が係留されておりまして,筏に乗ると大きな鯉がゆう然と泳いでいる姿が手にとるように見えたものです.

 東海道線の鉄橋の上手には砂州があって,夏ともなると,大勢の人が水泳を楽しんでおりました.今のように河川の汚れがないので,砂の中にはシジミ貝がたくさんおりまして,それを手で掘って夕げに賞味したものです.

 六郷・羽田は井戸水が悪くて,水コシでこさなかったら全然使用ができませんでした.よくお年寄が『うまいお茶でも飲みたいから川へ行って水を汲んでこようかな』などという会話をよく聞いたことがあります.事実,羽田方面では,「六郷川の水売り」,六郷川の水を汲んで行って,売った商売人がいたそうです.私は,それを見たことはありませんが,そういう話を聞いております.それほどに多摩川の水はきれいだったのです.今と比べたら,まったく雲泥の差でございますね,.

 それから,各工場の仕事は概ね高水敷の土砂を規定の高さに掘削してその土砂で新堤を築造する作業でしたが,ばくだいな剰余土砂が生じまして処分先に苦慮した次第でした.そこで池や沼,水田,湿地のあたりの民有地に異例ともいうべき有料の民地捨土を行って,1立坪3円から10円ぐらいで土地造成ということをしたのであります.そして,その金は提供したという名目で大規模銀行に運用させたんですね.これは会計法上違法であるかどうかということが問題になりまして,末松さんもずいぶん苦労したことがあります.それで,会計検査にどういうように説明しようかと大変頭を痛めておったと聞いております.右岸は川崎市の一部,高津町・中原町・御幸町・大師河原,左岸は矢口・池上・六郷・蒲田・羽田・大森・田園調布等,湿地荒廃の地に投棄して,記録によればその総土量は441万1,280立方米,造成された成果面積は492町3反8畝1歩に及び,現在の住宅地,工場地として今日の繁栄を極める布石にもなったと記されております.

 土砂の運搬は馬トロといって,馬で引いたのです.ご存知ですか.馬で引きまして,トロッコ3両を連結して,馬が6キロ軌条の上を引く方式で.築堤はもっぱら人力で,1台のトロッコを2人でエンコラヤと押し上げたものでした.トロ押しの労務者は主に支那人でした.日本の労務者は重労働なので従事しなかったのです.当時はそれで,後々は朝鮮の労務者も従事したように記憶しております.

 相馬号,多摩号という2隻の浚渫船がありまして,相馬号として船は六郷橋から上流部矢口地先まで,多摩号は味の素より下流部を浚渫しておりました.

 また,民間の砂掘りもあって,船で長い竹等の先にカゴ鋤簾をつけた道具で鼻歌まじりの砂採取をしていたのどかな風景も忘れることができません.

 大正末期から昭和の初め頃,事務所を小向から味の素地先の久根先というところに移転しました.

 辰馬所長が大正13年に外遊したので後任に金森さんが所長となりました.そのころ川崎水門,次いで六郷水門を築造し,その擁壁には金森式鉄筋レンガを初めて用いたと聞いております.その当時,新技術として脚光を浴びたものでした.

 当時,職員は金森所長はじめ,末松以下40名です.

 以上は大正末期から昭和の初期までの私の追憶の一端でございます.

 高橋 ちょっと質問させていただきますが,大正11年からお勤めでございますが,お勤めになった翌年が関東大震災ですね.

 山上 そうです.

 高橋 関東大震災の時の多摩川の状況,堤防とか何かご記憶のことがありましたら,一言お願いします.

 山上 大正13年当時は,六郷橋から羽田に至る間は旧堤がございまして,無堤地のところもあったのですが,そういうところでもっぱら新堤を築く作業のみやっておりましたですね.

 高橋 震災の被害のことで何かございませんか.

 山上 被害は,事務所の方は細かいのがございましたが,多摩川の堤防のほうは被害ございませんでした.

 石井 ちょっと震災の被害について,思い出してお話ししますが.私はちょうど船で朝出船していなかったのですが,羽田から大師方面の京浜堤防,海岸堤防がほとんど全滅になりました.そして,羽田と大師に鯉とか金魚の養魚場がありまして,それが全滅になってしまったのです.そういう被害がありました.用水はなかったですね.

 高橋 被害額としては,多摩川の場合は大震災で護岸の被害が非常に大きく出ておるんですが,何かその辺ご存知ありませんか.

 山上 私は護岸の方はあまり記憶ございません.

 高橋 多摩川の河川敷に家を焼かれた方が野宿したというようなことはないのでしょうか.

 石井 そういう被害はないです.家がつぶされた程度でね,焼かれたところはないと言ってもいいくらいです.羽田方面から大師は.

 山上 それでは,あなたのおっしゃるのには右岸のほうの堤防がズッと壊れたということですか.

 石井 その堤防の下に護岸がありますね.あれが,ドッと川の中に崩れた,それが被害です.

 高橋 山上さん,ちょっと話題が違いますが,もう一つだけおうかがいしたいのですが.いろいろ記録によりますと,金森所長の書かれた論文などは拝見しておりますけれども,大変名物所長さんで,非常に変わったことをなさったということですが.

名物所長は映画がお好き

 山上 そのとおりです.

 高橋 いろいろ新しい工法を考案されたとか,それから,多摩川を主題にした映画をつくったこともうかがっているのですが,その辺,金森さんのことで何かございませんでしょうか.

 山上 金森さんというと東京帝国大学ご出身の方で,非常に変わった突拍子もないことをやる人で,「多摩川の水を治めて」というような映画を作りましたですね.当時,松竹キネマ株式会社が蒲田にあって,金森さんがそこへしょっちゅう出入りしまして,筑波嘉子[ツクバヨシコ]などに主演させまして写真をとったようなことがございました.

 高橋 実は,フィルムを探しているのですけどまだ見つかりません.何かご存知ないでしょうか.

 山上 フィルムについてはわかりません.

 高橋 そうすると,そのころの多摩川の風景が見えるじゃないかと思って探しているのですが,なかなか見つからないのです.映画をつくったという記録はあるのですか.

 山上 川崎水門ですね.

 高橋 それは劇映画ですが.

 山上 劇映画です.金森さんもその映画に出ておりましたですね.それで,鉄筋レンガや短い杭にして足をつけた杭なんか,金森さんが考案したりしましたが,あまりはやらなかったようですね.

 金森さんは,いろいろ突拍子もないような考案家で変わり者だったですね.

 それで,あと末松さんのキモ入りで共栄工業という会社をつくりまして,その時金森さんがいろいろ共栄工業にアドバイスしてくれました.

 高橋 どうもありがとうございました.

 次は,青木弥太郎さん,お願いします.青木さんは昭和6年からでございますか.

 青木弥 はい,役所に入ったのは6年です.

 私は,明治37年に,多摩川から汲んできた水でウブ場につかったそうです.それから79年経ちまして,私の生まれたところは今野球場になっています.

 私は土木工事で50年,本当の労務者で50年やりました,今お話になった金森さんのレンガ工事にも携わったし,大正14年の六郷橋のタモトを馬トロで埋めたのにも立会いました.

 大正12年の古市場の堤防の時には,みんな手で押すトロでやっていたんです.そしたら,トロ,今まで坂で押していたのが,急に下がっていっちゃったんです.今の矢口ですね.あそこの堤防か,かなり盛り上げていたので押し上げていたのが地震がきたので堤防が下がってしまって,それで,トロがズーッとひとりでに下がっていってしまう.そういうこともありました.

渡し賃は手のひらの時計で

 高橋 関東大震災で下がったわけですか.

 青木 そうです.

 あの当時,丸子の渡船は,田園調布で1株,丸子で1株,それから徳川さんから辞令をもらった大貫さんが1株,3株で船頭をやったのです.あの当時の入札が,1年365日だけど3つだから100いく日しかないでしょう.それでも,青年団で3,500か4,000円ぐらいで落とすんです.それで,船頭は青年団が出て,渡し賃は手のひら時間といって,手のひらが見えると親方のもので,手の線がみえなくなると,こんどは船頭のものになりました.そういう時間でやったそうです.

 高橋 時間がですか.

 青木 時計ないので,手のひら時間といって時計のかわりにしてました.夜になると,暗くなって手のひらが見えなくなると,親分は1銭か3銭集めたのを袋に入れて帰っちゃう.あとは船頭のものでした.

 兄貴が青年団で船頭をしていたときのことなんですが,家がつぶれてしまって,それで河原へ飛んでいって『兄貴,家がつぶれちゃったぞ』と言ってね,行ったら,川から青い砂がブクブク吹き出してね,

 高橋 流砂現象ですね.

 青木 そういうことを覚えていますよ,大正12年.

 それから,大正6年,尋常が5年ですので,私は6年の時には渡船をわたって田園調布の尋常高等小学校へ行きました.大正6年,米騒動事件で,私は貧乏人の百姓でしたので河川で地所を取られちゃうし,百姓もできなくなり,職業見習いに川崎へ行ったんですけどね.その時は大正7年でした.その時に,さきほど話に出た川崎の水屋が,六郷用水の水を砂でザーッとこして,樽へ1杯2銭だ3銭だといって売っていたんです.

 山上 実際にあったんですね.

 青木 ええ.それで,私が行った主人の旦那が,川崎の水はまずいから川へ行って汲んでこいというので,朝早く,六郷の下にバケツをかついで汲みに行きました.それが大正7年です.その時に,マラソン選手の金栗さんが,一人で六郷橋をかけているのを水を汲みに行った時に見て,今だに目に映っていますよ.

 それから,そこをやめて農業を手伝いながら神奈川の鉄筋コンクリートの,今の暗渠工事をやりました.あの当時は,何インチ何インチと言っていましたが,そのうちメートルになりました.大正13年に,この下の蛇籠の護岸工事の時にドイツから吹付けコンクリートの機械がきたんです.インターナショナルセメント管株式会社で,技師がノエマンさんとアペルさんと2人でした.

 高橋 それは,大正13年ですか.

 青木 ええ,13年です.その機械で蛇籠のところへ吹きつけるんです.あの時,ドイツの人が『今に左官屋は要らなくなっちゃう.みんなこの機械になっちゃう』って言ってました.あの当時は,ゴムホースに水と砂とセメントをから練りして乾かしたものを,2本で先へいって水と調節して,ブーッと蛇籠へ吹き付ける工法で,それをやったことがあるんです.

 戦前は,国道工事の測量に携わりましたが,戦争中,軍の指令で鶴見川に早く橋を架けろというので,畑中さんが技師の時に鶴見川の橋をかけて,多摩川も木橋をかけました.それが一晩でボーッと燃えちゃって,きれいだったって言いますが.確かに300mの木橋が燃えているんだから,きれいだったでしょうね.

 そんなような工事で,道路で20年,こんどは鶴見川をやってそれから多摩川へきて20年.

 高橋 多摩川へこられたのが,昭和6年ですか.

 青木弥 いや,道路です.その前も多摩川は大正時代から人夫として働いていました.そのころは請負ではありませんが,各地区に親方がいて内務省に人夫を出してやっていました.そこで私は労務者として働いていました.

 高橋 ありがとうございました.

 次は,吉沢さんお願いいたします.吉沢さんは昭和10年からですか.

 吉沢 そうです.昭和10年で間違いございません,

 昭和10年のころですと,もうすでに維持工事,下流のほうの工事が終わりまして,事務所は調布市にございました.そこへ皆さんお移りになって,我々若い連中は,現場の主任のお手伝いでした.

 私,最初にやったのは,狛江の堤防の盛土で,馬トロと人力でやりました.

 高橋 そのころ,やっぱり馬トロを使っていたのですか.

 吉沢 はい,それと機関車も.それから人力.大体その3種類ぐらいの方法で河川敷の砂利をあげて,堤防に盛ったのです.

 それで,あのころいわゆる余裕高というのは知っておりましたが,余盛りなんていうのはなかったですね.どうして余盛がないんだろうって聞きましたら,砂利だから下がらないから余盛りはいらないんだと,こういうような話でした.ああそうかなと思いまして,ズッとやっておりました.

 それが明治43年ごろの大洪水で相当川が荒れて,東京が大正何年かに河川敷の認定をやりました.ここらへんですと全部用地買収はあったかどうか,少しはあったのかもしれませんが,大体,河川敷を自由にやっておったと,そういうような状況でございました.

15万個の論争

 ひとつ困ったことがあったのは,私が係長のころですから,もう昭和何年ごろですか,多摩川の4,170m3/s,15万個*ですね,これがどうして決めたんだって,私,神奈川県から問いつめられましてね.

 高橋 それは戦後いつごろですか.

 吉沢 昭和22〜23年ですね.

 高橋 カスリン台風のあとですか.

 吉沢 そうですね.あのころですね,多摩川は15万個,どうして決めたんだって.どうして決めたか調査課に聞いてもわからなくて.

 私も係長をやっておったものですから,責任上知らないというわけにもいかないので,辰馬先生に直接お聞きしたわけなんです.そしたら,『お前,今は学士が多くてそういうことをジグジグ言うけれども,昔はそういうことは,君,考えないんだよ』って言いうわけです.で,『これは,エイッと決めた数字だからそういうものはないよ』と,こういう話なんです.それで,神奈川には,『いや,ないよ』と,こういうような返事をさしあげたんですが.後で本なんか読んでみますと,やっぱり河川なんかの本にも,類似河川の荒川上流の15万個をそのまま多摩川にもってきたんだと.水位なんかは,昭和43年の水位の痕跡等からも,あるいは後からも付け加えたんでしょうけど.そういう始末で.だから,15万個のもとをただされても,それはわからないと,こういうお話でございました.それが,私が困った思い出でございます.

 高橋 戦争が非常に激しくなった昭和19年,20年ごろ,そのころの何か苦労された思い出なんかございませんでしょうか.資材もなかったんじゃないかと思うんですが.

 吉沢 私,終戦後は鶴見川にちょっと関係しておったものですから,直接多摩川のことはわかりません.

 秋本 戦争中は,ほとんどやっていなかったんじゃないでしょうかね.第一,宮城の中に天皇陛下の防空壕つくりまして,その骨材をみんな多摩川から運んでいました.

 吉沢 ほとんど開店休業の状態ですね.

 高橋 どうもありがとうごきいました.

 その次は石井さんが,お二人とも昭和13年からでございましょうか.石井さんはいかがでしょう.

 石井 13年です.

 高橋 では,石井さんからお願いします.

 石井 私は,昭和13年に東京都浅川改修工事事務所でドラグを運転していましてね.それで,こんど東京都の品川丸が低水工事でもって多摩川へくるというので,いっしょに内務省へきたのです.

 私は5月にここへご厄介になったわけですけれども,5月末になって船を持ってきたんですが,係留に困ってしまいましてね.そのうちに入梅間近で雨がよく降って,5月30日でしたかね,その時に増水しまして,品川丸がサンドポンプ船ですが,それが流されましてね.それで,今でも矢口の鉄塔というのがありますが,それに当たれば乗組員全滅だったんですが,それがいちばん印象に残っていますよ.それでも,どうにか30mぐらい前で止まりましたかね,

 それが終えて仕事を始めたのが8月ごろでした.11月には大体埋めたてが終えまして,あとこの埋立ては日本電気の何か工場ができるとか言ってました.私もよく知りませんでしたけどね.水田と池が2つばかりありまして,これを埋立てました.

 それでこんどは船を東京都へ返して,で,私はこっちへ残って,ご厄介になったわけです.

最上川からやって来たポンプ船

 それで,酒田の最上号っていう,やっぱりポンプ船がありまして,それが,こんどは多摩川へ回送してきましてね.こんどそれに乗り組みました.

 高橋 最上川からきたんですか.

 石丼 ええ,そうです.

 勝田 その船を私は昭和16年に華北へ持っていったんです.蒋介石の後,港をつくりに.

 高橋 華北へですか.

 勝田 ええ.

 石井 それで,その船で,川崎大師殿町のいすゞ工場のある側の敷地を作ったわけです.

 で,その前には,12年・13年,勝田さんのほうが,今の飛行場のある一角を埋め立てたわけですが.そうしているうちに,こんどは多摩号が利根川からきました.

 高橋 多摩号,船の.

 石井 多摩号という,やはりポンプ船ですが,それがきました.

 勝田 それは内務省の船です.

 石井 内務省の船ですが,それが1回利根川に行きまして,

 高橋 それがまた来たのですか.

 石井 またこちらへ来たのです.15年ごろこっちへ来たのです.それで,あっちを埋め,こっちを埋め,大師橋の回りをいろいろやっていまして.そのうちに,私,召集を食いました.それで帰ってきたのが21年でしたか.

 それから,大正6年の台風の高潮ですね.

 高橋 東京湾の.

 石井 ええ.ちょうど私が数えの12,13でしたからね.私もまだ小学校時代だったのですが,多摩川は大した増水はなかったんですが,裏の海岸堤防がやられまして,今の大師橋のところで,床上浸水がずいぶん出たんです.それで,今の飛行場あたりには,2階で船で行ったり来たりしていたんです.ところが,戦後,飛行場ができるために,堤防と同じ高さに埋め立てをしたのです.それまでは,堤防からこう平地になっていたんです.今はもう,大師の方の埋立てが陰になりますからね.あれだけの津波が,台風がきて高潮がきても,まあ,おそらく上がることはないだろうと思いますが.ずいぶんひどい津波だったんです.町名が鈴木町ていうんですけどあそこが全滅したんです.

 その他,私が覚えているのは明治43年の洪水です.もう水の出る度に,六郷橋は毎年のように流れたものです.もうちょっと大雨になると水が出てね,今の高潮対策で埋めたてして護岸ができていますが,あの内側にあります堤防,旧堤はレンガで壁を作ってできていますけど,私たちの子供時代から思うとずいぶん低くなっています.

洪水でよく切れた堤防

 1m以上も下がっているんです.ですから,あれだけの水が出たら,高潮の方の堤防ならなんともないけど,昔の堤防だったら,もぐっちゃうでしょう.堤防がよく切れたんですよ.あの大師橋から200mぐらいいったところがね.ちょうどカーブでぶつかるところですから,よく切れました.

 高橋 よく切れたのは,いつごろですか.

 石井 明治43,明治40年ころです.そのころずいぶん荒れたらしいんです.

 高橋 明治40年,43年は切れてますね.大正6年はどうでしたか.

 石井 大正6年の時には津波だけで,増水はなかったです.

 高橋 すると,主として切れたのは明治の終わりごろですね.どうもありがとうございました.

 それでは,次に勝田さんお願いします.

 勝田 私は船乗りなんです.ポンプ船に乗って.それで多摩川へ来たのは13年でした.その時は,飛行場にまだ2枚バネの飛行機が降りていたんです.

 高橋 ああ,複葉の.

 勝田 戦争前に,その埋めたてをしたのです.それが特殊鋼のね,今の飛行場のゴミ焼場になっているんです.そこが特殊鋼で,地所を買ってそこを埋めたてたのです.

 高橋 あの最上という,さきほどおっしゃった船ですか.それが多摩川へきて,その後北支へ行ったのですか.

 勝田 多摩川でいすゞやなんかの埋立てを全部して,それから華北へ行ったのです.

 高橋 多摩川では,何年ぐらいそれを運転していたのでしょう.

 勝田 最上は2年ぐらいです.その前は,東京都から2杯借りていたのです.品川丸と,東京丸の船で大体,大師橋の付近を全部埋立てたのです.

 高橋 そのころの,そのポンプ船は何人くらい乗っていたんでしょう.

 勝田 20人ぐらいいました.1昼夜交替です.

 高橋 そうですか.やっぱり,それで今の空港のあたりから.

 勝田 そうです.今の空港の修理箇所が奥の方にありますね.あの辺りです.埋立てたのは.あと広くしたのは,戦争に負けてから広くしたのですから.

 高橋 なるほど,その最上は,そのころは非常に最新鋭のポンプ船だったんでしょうね.

 勝田 ええ,100馬力でした.最上号っていうのは,内務省が戦時機械工場で作った船なんです.

 その時分は,多摩川といっても懐中電気1つなくて,カンテラをこしらえて,量水板を見に行きました.

 高橋 そのころ,事務所の機械というと,船は別として,何がありましたか.

 勝田 大した機械はなくて,ヤンマーくらいのものですね.あとスコップぐらいのものです.

 日野 それで.多摩川を浚渫していたんですか.

 勝田 そうです.

 高橋 そのころ,下流の方の河床は上がりぎみだったんですか.そういうことは関係なく,ともかく埋立てが必要だったのでしょうか.

 勝田 軍需工場を作るのに,埋め立てが必要だったのです,

 高橋 その後,戦争が終わって中国から帰ってこられてからでは何かありますか.

 勝田 帰ってきてからは,出張所長の車の運転などやりました.

 高橋 でも,終戦直後は,なかなか車も大変だったんじゃないでしょうか.

 勝田 フォードの古いやつです.

 高橋 多摩川だと所長さんの車が入ったのはいつごろでしたか.

 山上 樫部さんの時だから,昭和5,6年です.初代の所長辰馬さんは自転車でした.

 高橋 話は変わりますが,勝田さん,他に戦後のことで何か,

 勝田 戦後,帰ってからは大したことなかったですね.

 高橋 では,話題がございましたらということにいたしまして.次に多賀さんお願いします.

 多賀さんは,昭和14年からでございますか.

 多賀 私は,鬼怒川から多摩川へ転勤してきましたのは,昭和14年の6月です.それで,16年の7月には本省へ帰りました.

 で,多摩川に2年おりました時のことを思い出して,一応書いてみました.

 溝口から南武線の府中までの間約12km,これが,私のおりました稲田工場の管轄になっておりました.それで,稲田工場は,この小田急の鉄橋から約12〜13m上流にあり,倉庫は鉄橋の下にありました.今,道路になっておりますが,その時分は旧堤でして,旧堤の上に稲田工場がありました.

 その下に和泉,それから,菅・押立・大丸と4つの派出所がありました.

 それで,堤防は稲田工場としては,約7割がた竣工しておりました.下のほうでは溝口のところで排水路の関係がありまして,堤防が2個所切ってありまして,あとはその4つの派出所で受け持っている区域の堤防だけでした.

 それで,堤防はさきほど話があったように砂利堤でして,馬トロを使っておりました.しかし,戦争で労務者が減りまして,馬トロもなくなり,押立築堤が14年度末に竣工したものですから,その工事で使っておりましたガソリン機関車を和泉の派出所へ持ってまいりました.

燃料はガソリンから木炭へ

 それで,燃料がなくなって,ご承知の木炭発生炉を取り付けて運転しておりました.あとはみな手でやりました.

 稲田堤は特殊堤防で,堤防の上にコンクリートの壁をこしらえて,花見時分に法を荒さないようにというので,特殊堤防をこしらえました.

 大丸築堤では,ガソリン機関車1台とディーゼル掘削機が一台ありました.それで砂利を積み込んで築堤敷へ土盛をしました.

 護岸工事としては,その当事多摩川橋の上流で,左岸の方を東京都が粗朶沈床工をやっておりました.直轄では,この小田急の鉄橋から約850mほど下流の堰地先で護岸をやっておりました.

 それで,問題の川の状況ということなんですが,用水の取入れのために,この川を横断して堰が稲田工場部門には3箇所あります.いちばん下は,この田中屋の前にあります二ケ領の宿河原堰です.それから,その上に六郷用水の取入れの堰があります.その六郷用水は,下流の蒲田,大森,羽田方面の土地がだんだん開けてきて,農業用水の必要がなくなりましたので,16年の水で壊れたままにして水利権を放棄しております.その上に,二ケ領の上河原堰がございます.

 この稲田工場では,船が通るというのはありませんでした.筏が流下していくのは私は4回ばかり見たことがありますが,それ以後は見ておりません.

 それから,砂利採取がとても厳しく,下流の方もですが,この稲田工場でも宿河原のニケ領より下流は河床がとても低くなっておりまして,河積も大きくなっております.それで,低水路に施工してありました杭打ちの水制が陸上がりして,高水敷の法先護岸のような,水制のような感じがしておりました.今でも,左岸の20km付近にその水制は残っております.東京都の水道の水源として,川の中に集水管をいけて伏流水を取っておりました.それで,その区域が保護区域になっておって砂礫の移動を禁じられておるのです.それで,直轄工事でもそれに手をつけられず,真中に高く山のように砂礫が堆積してもそれを取ることができないんです.それで,その堆積土にぶつかった水は,右岸の方へ行って,それで右岸の護岸を洗って,護岸の法先がだんだん下へのびるというふうでして,いまだにその工事を続けていると思います.

 東京都のその水道のために禁止した区域のために,水が集まらない時には,川の中へ水路を掘っておるのです.それを,両脇において山のように砂礫を積んで,それで水を貯めたら取るように,集水管のちょうど真上を水が流れるようにして取っておりました.禁止区域がアベコベに水を妨害しているような現象です.そんなふうでした.

 砂利採取については,この堰地先の宿河原と中の島に大がかりな採取所がありまして,南武鉄道を利用して両方とも砂利を搬出しておりました.その他は,自動車でもって許可を受けて砂利を搬出しておりました.その監視に,堰と登戸と多摩川橋の橋詰に監視所がありまして,東京府と神奈川県の所属の巡視の方がそこに詰岸めており,砂利の搬出量を監視しておりました.それで私の方は搬出に対しては別にとやかく申しませんでした.ただ,その取っている区域を,搬出に便利のいいところへ勝手に移動しているような所が見つかったら注意するぐらいの程度でして,砂利採取については稲田工場としては別に監視もしておりませんでした.

 多摩川にかかっております当時の橋梁というのは,多摩川と是政にあります木橋です.これしかなかったのです.で,あとは渡船が稲城と登戸・中の島・菅にありました.登戸は府県道になっておりましたので,渡船賃は徴収しておりませんでした.他は通行しますと,地先に住んでいるものはお金を払いませんでしたが,他の土地の者が通ると1銭ずつお金を払っておりました.

 それから,その当時の川の水はとてもきれいで,夏になりますと子供が水泳しておりますし,我々仕事をしている者も暑くなって水が飲みたくなれば,川の水をすくって飲んでおりました.そんなふうに,とてもきれいな水で,現在とは比べものになりませんです.それで,アユの名所の多摩川と言って,期待してきたのですが,ここへきましてアユの姿を見たことはありませんでした.

 それで,稲田工場で,今の小田急の鉄橋の下のこの田中屋の裏のほうの道路,これが旧堤なんですが,これが15年か16年に公用廃止になったのを覚えています.神奈川県の告示になったのを覚えておるのですけれども,その日時はおぼえておりません.川の状況についてはそんなところです.

 思い出に残っているのは,何分2年間のことですからこれというほどのこともありませんが,強いて言えば,昭和16年の8月ですか,関東地方の各河川に出水がありまして,多摩川上流も計画高水位に達する出水がありました.それで,私が7月に本省へ帰りまして,佐藤幸三氏が後任の席に着かれたのですが,まだ着任早々でというので事務所から要請があり,私が本省から稲田工場へ応援にまいりまして4,5日おりました.その時に,この田中屋の前から約40mさきで,護岸が切れかかって法が壊れているのがわかりましたので,それを夜間作業でもって,竹流し,木流しと,それからムシロばり,その時のムシロばりのムシロがないのです.それで,堤外に竹やぶがありましたのですが,その竹を刈りまして竹を束ねて畳のようなかっこうに組み立てて,それに土俵をつけて法に流しました.ムシロばりでなくて竹ばりになりますけど,そういうことをしてしのぎました.

 江戸川におる時には,付近の畳を徴収してムシロの代わりに畳を流したこともあるのですが,ここには徴収するものもないのですから,竹でやりました.

 それから,水防を終えて本省へ帰りまして,本省の方ではすぐ災害の予算要求書を出せっていわれたのです.私,テーブルマスターですから,全部の川のこといたしました.それで,多摩川へ連絡しましたんですが,多摩川ではその時にいちばん上席に秋本さんという方がおりまして,その方がいっさい采配を振るのですけれども,早く出さなくてはというようなことであったものですから,私が帰宅しまして,夜,事務所へ手伝いにきて徹夜したこともこざいました.

エンジンのかかりが悪くて泣いた木炭機関車

 それから,さきほど話したように,ガス発生炉をつけたガソリン機関車ですから,これがちょうど寒中にぶつかりまして,朝のかかりがまずいと捨て場の人夫から積みこみの人たちまでが手ぶらで遊んでおりますので,一刻も早く運転するようにというので,運転手の尻を叩くようにして,私が6時に現場へ出てきて炉の中へ火をつけて,それから木炭を中へ入れているような時もありました.寒中,約1カ月くらい6時に現場へ行っておりました.それが寒い時でしたから,自分の身にしみております.

 それから,事務所の様子ということなんですが.事務所には,樫部技師が主任で,下流と兼務しておられまして,その後藤芳技師が年の秋だと思いますが,専任で着任されました.その日時は記憶しておりません.ここにおいでになる吉沢さんはもうご存知でございますが,皆さんとても和やかに仕事をしておられました.事務所には13人ばかり.そのうち土地収用の事務所の係が3人,事務所としては13人ほどおいでになりました.それから機械の工場に7人ばかりおりました.私のおりました稲田工場には,技師として私1人で,あと技師補の方が5人おりまして各見張りを担当しておりました.それで,その中でいちばん古参の方が利根川のほうからこられた方で,この方が護岸専門で各箇所へ行っておられましたが,他は全部見張りの主務者として勤めておられました.

 高橋 どうも,詳細にありがとうございました.馬トロは14年になくなったとうかがいましたですね.

 多賀 14年の6月です.

 高橋 話はちょっと違いますけど,筏はいつごろまで,

 多賀 筏はそうですね,私がきました14年ぐらいでしょう.

 堰には,みな筏流しというのがございます.あそこを通って下りますから.で,だんだん水が少なくなりまして,川が浅くなりましたものですから,筏が流れなくなる.そのうちに自動車が発達しまして,自動車運搬ということになりました.

 高橋 それから,さきほどの渡しはいつごろなんでしょうか.場所にもよりけりでしょうけれども.

 多賀 渡しは,私がいる間は船がありましたですね.それから1年半か2年ぐらいでしょうね.

 高橋 そうですか.

 多賀 だいたい,本省へ行きましてもテーブルのことやっていますものですから,多摩川の仕事は工程報告をを見ていますと仕事の具合がわかります.それですから.

 高橋 すると,昭和18年ごろですか.

 多賀 私の家がこの川向うで,多摩川へ時たま出かけるものですから,本省にいても多摩川の様子だけはよくわかりました.

 青木 渡しは,登戸は28年までです.あの水管橋ができましてなくなりました.それから,菅の渡しは多分38年でなくなっていると思います.

 高橋 そうですか,ありがとうございます.多賀さん,何か資料をお持ちでございますか.

 多賀 多摩川にお客が来た時に,私がお客を案内することが多かったので,質問されたことを集めて資料を作りました.これを作る時には,樫部さんや田村さんに昔の様子などを聞きまして作りました.

 高橋 そうですか.その資料はお借りできますでしょうか.

 多賀 はい,どうぞ,写真も43年の多摩川の氾濫と荒川の写真もついております.対照的につけたのですけれども.多摩川が氾濫して,大森の方へ水が流れて東海道が水浸しになっている写真です.

 高橋 それでは,次は大貫さんお願いします.大貫さんは昭和16年からでございましょうか.

 大貫 はい,私は昭和16年の2月に多摩川の維持事務所に採用されまして,翌月から田園調布出張所へ配属されたわけなんです.51年に京浜工事事務所をやめるまでの間,他の工事事務所にも行ったこともありますが,大体京浜におりました.それで,今,先輩方の話を聞きますと,地域別とか震災のその後が主に話されていましたが,話をかえまして,私は思い出的なもの,風物誌的なものを中心に話していきたいと思います.

想い出は投網とアユ

 私が16年にこちらに来た時と現在では,改修のやり方が違ってきていると思います.当時は地域住民が一体となってやってくれました.直轄工事ですから若い人たちが施工の監督をするのですけれども,地域に親方がいまして人夫を出してくれていました.本当に官民一体となって仕事をしていました.また,私たちが現場に行きますと,昼休みなど住民がお新香を持ってきてくれたり,こういうご馳走を作ったから食べてくれといって持ってきてくれました.今では考えられない姿ではないかと思います.

 それと,工事になりますと今とあまり変わらず,測量して設計をし,それを上司に許可を受けてもらって,それを現場へ持ち帰って監督するのですが,昔は経験が重視されました.私も長く青木さんと仕事をしましたが,青木さんには経験が大事だということでずいぶん教えていただきました.馬トロで土砂を運搬するのにもやはり自分たちでやってみて研究して設計を組んだものです.

 また,災害なんかありますと,みんな2カ月でも3カ月でも半年でも事務所へ呼びつけられるのです.辞令なしで配置転換されるわけです.

 それから,さきほど戦後の資材の問題が出ていましたけど,セメントも不足になって,茨城県からボロボロした岩盤を持ってきて,護岸にはりつけたりしました.後ろはガサガサの裏ごめですけれども,それで相当護岸をやりました.

 それから,思い出といいますと,私が経験したのはわずかな年数でしたが,ここから二子にかけては,浅瀬で投網を打ってアユをとった思い出があります.また,丸子橋から下流に行きますと,ベカ船といって砂利を積むのと同じような小舟で,投網をしてアユをとっているのを見たこともあります.付近の東京の金持ちというのは,二子の新開地とか丸子の新開地で,料亭の持っている舟で網でアユをとって一杯飲んで帰っていきました.

 山上 多賀さんはアユは知らないといったけど,何年ごろでしょう.アユは大分いましたね.

 大貫 いました.水がきれいなんですね.測量に行くと,まず水泳をやるわけです.水泳を10時ごろまでやって,昼は水がないので川の水をくんで飲んでいました.それから,今の田園調布の出張所の前のところにはアサリとシジミがいました.さきほども言いましたが,それを取りまして夕食と朝におつゆに入れて合宿所で食べました.とにかく水はきれいしでたね.

 それから,今の丸子橋の下に,ボート屋さんがたくさんありますが,その前が水泳場だったのです.大森海岸はありましたが,世田ケ谷とか目黒や渋谷の人たちは行けないので,それで多摩川が水泳場だったのです.そのうちに,水質の問題や水温の問題など禁止区域になりました.

 高橋 よくわからないのです.35年ごろはやっていたと思うのですけれども.

 秋木 そんなにやっていないですね.

 大貫 その前かな.とにかく,丸子橋には水泳場があって憩いの場所になっていました.

 それで,仕事のことに入りますが,戦前私がきた時には,例えば六郷のゴルフ場とか丸子橋の自転車コ一スとか,市役所が主体となった河川敷の利用といったのをやっていたのです.ところが,一面砂利の乱掘がありまして,いかに高水敷を有効に利用させるかということで,出張所が窓口になって河川敷の利用を図ってきたのです.

 また,戦前戦後にかけまして,本堤の裏に畑をつくりました.増産で,ジャガイモとかサツマイモとかカボチャを植えたのです.

 山上 高水敷にですか.

 大貫 本堤です.高水敷には麦をつくりました.これも思い出です.

 3つ目の思い出をお話ししますと,何年だったか河野大臣がきましてね,

 高橋 39年です.

 大貫 39年でしたか.

 高橋 オリンピックのころでしょう.

 大貫 オリンピック,そうですね.高水敷のところに外郭環状道路をつくるんだとか,堤防の上に高層ビルをつくるんだとか.そんなことをしてもしょうがないと言っても仕方がないので言われるままに現場へ行って丁張り架けて.朝早く起きてね,そんな経験もしたので思い出になったんですね.

 山上 これは,田村勝好氏が建設大臣に陳情してやったんです.

 大貫 出張所で,ちょうど若い頃で,何でもやらされたわけです.

 流量観測も2つあるんです.今は外注に出してやりますけれども,洪水になると私たち丸子橋をはって歩きました.あそこから,フロートを流すわけです.行ったり来たりしてビッショリになって3交替ぐらいでやりました.風がひどいと,丸子橋へ行く途中の坂から丸子橋へはっていって,命がけでフロート投下をやりました.勝田さんもいっしょにやったグループです.

洪水現場で狛江市長とけんか

 最近の思い出は,49年の洪水の時に狛江市長と現場でけんかをやったことです.午後,現地地先に岡田所長が水防できた時に,手ぶらで来ていたんです.それで『河川管理者で水防担当者たる者が困ります.建設省は水防をやるんでしょう』というので,『冗談じゃない.自治体がやるんだ.早く資材を持ってこい』と言ったら,『資材なんかない』というわけです.そんなバカなことはない.市長はカッカしていてどうにもならない.それで,今の多摩の出張所から資材をもらったりしてやりました.落ち着いてから助役さんを呼んで水防講義をしたのが,今いちばん思い出になっているんです.

 高橋 ありがとうございました.流量観測は,大分苦労されたようですね.

 それでは,次は吉田さんお願いいたします.吉田さんは昭和16年からでしょうか.

 吉田 私は昭和16年の4月からですけれども,16年の時には学校は行きませんで,人夫みたいな形で勤めさせていただいたわけです. 私が入りましたのは多摩川上流改修事務所で,当時は現在の調布市の多摩河原にあったのです.そこへ入りまして,それで19年まで学校へ行かせてもらって,19年に初めて辞令をいただいたわけなのです.

 昭和16年から19年までの間は,さきほどお話があったように戦争に入りまして,多摩川そのものはあまり工事をやっていなかったのです.それで,さきほど先輩の方がお話ししたように,一部は鶴見川の方へ応援に行き,また第二京浜の橋梁工事が緊迫していたということで,大半がその方の工事へ行っていたわけなのです.私どもは,その留守居部隊という形で,その時にはすでに事務所も本局の船橋へ持っていかれていまして,本当に6畳1間ぐらいの形で施設が残っていたわけです.

 で,19年からはやはり鶴見川のほうへ応援に行き,さらにその後,時局が切迫したため,軍の関係の防空壕掘りに行きました.

 多摩川へ帰りましたのは,昭和21年の4月からです.

 さきほど多賀さんがおっしゃられたように,多摩川改修事務所の中には今でいう出張所が稲田工場と西府という形であったのです.それが戦後は1本になりまして,京浜工事事務所の中の調布出張所という形で発足したわけです.21年に戻りました時には,浅川の合流点から2kmのところに派出所がありまして,そこで5年ぐらい勤めました.

 それから,その後ずっと私は上流ばかりで,浅川の工事にたずさわりました.浅川は当初は本川に対して約90度ぐらいの角度で合流していたわけですが,そのままでは下流に影響があるというので,それを約700mぐらい下流へ合流点を持っていって,合流角度を30度ぐらいにしたわけです.その工事の方を担当していました.

 工事をやった上で一番困ったのは,やはり砂利採取の問題もあったわけです.ちょうど私がおりました時に,多摩川の砂利採取が終息になりたわけなのです.河川管理が当時は都道府県にあったものですから,建設省としては規制しにくくて,河床を下がり放題下げてしまったという問題があります.

 高橋 ありがとうございました.

 日野 ちょっと,1つよろしいですか.その浅川の合流点の工事は,おそらく掘削と築堤とが主たる工事じゃなかったかと思うのですが,いかがでしょうか.

 吉田 はい,掘削,築堤で,当初本川は築堤をやらずにショートカット部分だけ先に開削いたしまして,その開削土を築堤に持っていったわけです.

 日野 そのきっかけは何でしょうか.

 吉田 要するに,22年の9月の台風の時に,下流にかなり影響が出たので,この合流点の変動が必要じゃないかということで,始まったことだと思います.

 日野 どんな施工方法でやったのですか.やはりトロッコですか,

 吉田 さきほど多賀さんもおっしゃった機関車と,終戦直後でしたので一部で新規工法でやろうじゃないかという意見がありまして,現在の関東技術がございますね.あれがモータープールといった時代で,派遣施工も入れたわけです.結局,払い下げのブルドーザー,それからオペレーターはモータープールからきて,直営という形でやりました.

 で,当時の機械はブルドーザーと油圧のショベルとドラグラインで,運搬は主にコンマ6立方米の土運車を使って機関車で引っ張ったわけです.

 高橋 ありがとうございました.

 青木さんは,昭和17年からですか.

 暮木利 はい,私とここにおられる大貫さんと吉田さんとは,いっしょに仕事をしていましたので.だいたいのお話は詳しくしていただきましたので,それを補足するような形で申し上げたいと思います.

 私は,昭和33年6月から37年の4月の約4年間の期間で,担当区域は平瀬川から日野橋までの区間でございます.

 多摩川の様子といいますと,砂利採取が非常に盛んに行なわれておりました.ご存知のように,当時は認定河川でございましたから,行政管理は府県で,工事管理が建設省ということで行われておりました.したがって申請業者は都府県知事に申請しまして,それで工事上あるいは管理上支障がないと認めた時は許可されて,採取しておりました.当時は,採取業者は10社余りだったと記憶しておるのですが,古谷,田村建材,京王砂利の3社はバケット式の採取機を使い,他の業者は3,4人ぐらいの人夫を使って,申請以上の砂利を採取していました.そのために37〜38年ごろになりますと,もう河床の低下もはなはだしくなって38年ごろに採取禁止になっているかと思います.で,その当時でどのくらい河床が下がったか,当時,いろいろ横断測量などやっておりますのでそのデータを調べればわかるのでございますが,終戦当時からみると,1mから深いところは3mも下がっているとかって言われておりました.それで,あとは河川の工作物及び付属物の影響でございますが,当時川には小田急鉄橋,多摩川水道橋,多摩河原橋,是政橋,南武線鉄橋,関戸橋,京王線鉄橋,日野橋,新井橋,高幡橋というような橋がかけられておったわけですが,いちばん極端に下がったのは京王線の橋脚でございます.それには木工沈床で根固めを補修されておりました.樋管では調布排水管,矢ノロ樋排水樋管の翼壁等の基礎が露出しました.護岸等の影響は当時はそれほど感じなかったわけですかね,水衝部で多少影響があるのではないかというふうに私ども見ておりました.そのためにか,工事はいたって簡易な工事でございました.

 それから,いろいろ変化がございますのは水制工でございますね.当時,聞いた話なんですが,戦争前は東京の施工は粗朶沈床が多かったそうです.終戦後は根固工,水制工は,大体木工沈床に変わり,工事中にその工事が災害を受けたときに多くはその防護に合掌枠が多く施工されたということです.

 それで,私がまいりました時,合掌枠とか牛枠の残がいがずいぶん多摩川に残っておりましたが,今はほとんどみられないのじゃないかと思います.私のいた当時はほとんどみな根固工は十字ブロック工法でした.消波ブロックといいますか,5トンから3トン,2トンという六脚で三面ブロックなんていうのが使用されて,施工されておりました.

 それから,当時どのくらい砂利採取されていたかは,だいたい一人の業者が4,000〜5,000立方米ではないかと思います.機械掘りはその10倍ぐらいやっていましたから,あまり的確な記憶ではありませんが,年間,16万から20万ぐらい採取したのではないかというように見ています.

 吉田 多摩川上流でですか.

 青木利 上流です.資料をよく調べてみるか,または業者を訪ねてみればあるいはわかってくるのじゃないかと思います.

 あと,特に思い出に残る印象的な出来事についていいますと,こういうことがありました.昭和36年9月16日の18号台風来襲の時に,浅川が警戒水位に達したため,流量観測の際,高幡橋から浮子による方法として,長さ1mぐらいの流観の先に電池つきの赤電気をつけて,夜8時から10時ごろ投下した時,浅川の合流点から多摩川の本流にユラユラとその流観棒がゆらぎながら本川に流れて出たわけです.それで,それを地元民が発見して警視庁の第8方面の本部機動隊に通報されて大騒ぎになったんです.地元民や機動隊では,人命救助のSOSの信号と間違えられて,多数機動隊が出動しましてね.それで,私,呼ばれて,今後は,あらかじめ連絡してから流してもらいたいとお叱りを受けたのです.自分の思いやりのなさに冷汗の思いがしたということを,ちょっとつけ加えさせていただきます.

お目玉をくった赤電気の浮子

 それは,どうしてかといいますと,その前は竹の棒にボールをつけてそれに火をつけて,高幡橋から流しておったものですから,多摩川の本流へ出るまでには火が消えてしまうわけです.ところが,電気をつけてやっておりましたから,多摩川までずっと流れて消えないものですから,そういうことがございました.

 日野 その時はまだ竹だったんですか.ビニール管ですか.

 吉田 ビニールというか,ファイバーですね,ファイバーみたいなので,1mの上に電球がついて線がついていました.

 青木利 それから,34年・2月ごろでしたかね.瀬端さんの後任の吉田主任と吉田さんと3人で多摩川の河状調査をしまして,5カ年計画をつくったというのも,これもひとつの思い出です.

 私のいました出張所は,調布市小島町997番地の地先にございまして,出張所の構造は木造の亜鉛ぶき,鉄板ぶきで,60坪くらいあったですかね.

 吉田 そうですね,全部入れまして.

 青木利 そういうようなところで職員は38人ぐらいおりました.

 工事の施工形態としては,当時はご存知のように常傭と切投げとか出来高払いとか小回りとか,あるいは請負付託とかいうような形態で工事が進められておりました.ですけど,私の方の出張所では役所の職員が多いために,ほんのわずかしか請負の形態では施工されておりませんで,ほとんど直営の常傭で施工して工事を進めておったという状況でございます.

 吉田 今,戦前と戦後の多摩川の護岸の工法が変わったと青木さんがおっしゃられましたけれど,戦前は多摩川は主として高水護岸が多かったわけすで.それで,今でいう玉石でコンクリートばりですか,私たちが入った時は,そういう形でおぼえさせられたのですけど.

 青木利 そうそう,

 吉田 戦後でもある程度はそれを踏襲していたわけです.それから,もしくは蛇籠を施工していたのです.それが,ある時期になりまして,こんどは片枠とか牛枠を入れましたんです.それをだんだんやめまして,水制工法がなくなったわけです.それで,今青木さんのおっしゃられたように,青木さんの時は十字ブロックが多かったというけど,その以前はだいたい名古屋大学かどこかの橋本規明先生の新河川工法を使いまして,H型の根固めとそれからダブルY型という形で多摩川は始めたわけです.その後に,洗掘された場合のやつが大きく落ちるということで,青木さんが説明された時,十字ブロックという形になってきたわけです.その十字ブロックの原型はどこからきたかというと,富士川を参考にしてきたわけなんです.その十字ブロックが終わりまして,こんどは現在盛んに使われている消波ブロックの形態に変わってきたんですね,で法枠が格子つきコンクリート張といった形になりました.それから高水護岸には,たしか浅川のほうの左岸堤の突端のほうにあると思うのですが,突起つきコンクリートばりで,タンザク型か何かをはめたような形の護岸ができていると思うので,そういう形に変わってきたということですね.

 青木利 そうですね.

 吉田 戦前と戦後の護岸の形が変わったということがございました.

 日野 タンザク型というのは,ブロックばりですか.

 吉田 ブロックばりっていうけど,タンザクの幅が約20cmで長さが1mくらいあるわけです.それを平張に打った中に玉石植えという形と同じように植え込んで打ったわけです.

 青木利 今,そこに施工箇所があります.

 吉田 対岸にありますね.水道橋のすぐ真上の低水護岸にもやっております.戦後,粗朶沈床は東京でやっておりましたけど,建設省は木工沈床が多かったわけです.粗朶沈床は,昭和10年ごろ直轄工事でもやっておったわけです.その当時は多摩川には粗朶沈床の経験者がいなかったので,多賀さんのおられた鬼怒川のほうから指導にこられたことがあったわけです.で,木工沈床になり,木工沈床も本来なら丸太の地松を使うことになっていますが,松丸太が確保できないということになって唐松などを使いだしました.そしたら,また河床が下がったために,腐る率が多くなるということで,こんどは鉄筋コンクリートにしてやりました.

 高橋 それは,何年ぐらいですか.

 青木利 昭和33年ごろだね.

 吉田 そうですね.結局木材も調達できなくなったということで.このへんにさます木材はすべて富士の裾野のほうからきていましたから.

 日野 護岸で玉石入れコンクリートっていうのはいつごろまでですか.

 吉田 玉石入れコンクリートっていうのは昭和20年代もやっていたんです.

 青木利 木工沈床も粗朶沈床も私はみな手がけました.最後は30年の時ですが,今の第2国道の上のところで沈床を川の中で組まないで陸で細めと坂田さんが言うので,竹を敷いておいてその上で粗朶沈床を組んで滑って川へ落としたことがありました.

 吉田 粗朶沈床なんか組む時,今はどこの事務所もやらなくなりましたが.昔は船でやったわけです.今は陸で組んだというお話でしたが,船でやった場合もあるわけです.その時にT型工業船という名前があったわけです.これはもう今は地建内どこにもなくなっちゃったのじゃないかと思うんです.

 高橋 それでは秋本さん,お願いします.秋本さんは20年からでしょらか.

 秋本 はい,その前から内務省におったのですが,京浜勤務になったのが20年です.この付近の多摩川と鶴見川,それから京浜国道,第2京浜国道などの事務所が全部集まりまして京浜工事事務所になったものですから,自然にそこに入ったわけでございます.

 それで私,川の関係の仕事につきましたのが昭和25年から30年の間なのですが,その間工務課の工務係長をやっておりまして河川の仕事に従事したわけでございます.

 当時,多摩川の予算面なども私やったのですが,当時の多摩川の予算が確か年に,3,000万円,維持費が1,000万円ぐらいでございました.

 私は現場には出たことはないのですが,当時の所長は高野務さんと坂田さんでございました.工務課長は岡田さんでしたが,この方はとてもこわい人で,朝きた時に立って『お早うございます』といわないとえらく怒るような人でした.ある時,たまたま仕事をしていて課長が来たのを気がつかなかったんです.そしたら席へ着くなりいきなり書類をボンと私の机の上に置いて,『なんだ,朝来て挨拶もないのか』とどなられたことがありました.帰る時はみんな並んで『ご苦労さまでした』と頭を下げるような状態でございました.岡田さんは生粋の河川の出の方でございまして多摩川から鶴見川,何でもござれで.また,人にやられるのがいやな方で,『河川は私がやるから,お前は道路の方をやれ』とおっしゃっていたので,河川については私はほとんど事務的なことしかやっていませんでした.計画などはちょっとでも口を出すと怒るほうでした.

 当時所長は高野さんでございました.この方はとてもおもしろい方でした.5時5分前ごろになりますと,わざわざ所長室から工務課へきまして大きな声で『おい,帰ってもいいか』と怒鳴るわけです.こちらも忙しくて残業していますから,別にありません』と言うと,プッとふくれるんです.それで岡田さんに『おい,岡田君,用がないってさ.帰ろう』と言って,2人で車でいったん帰るわけです.それで10分か15分ぐらいするとまた戻ってきて,『本当に帰っていいか』と言うわけです.それで,仕方ないので残業があるんですがつき合うのです.岡田さんと高野さんと庶務課長の青野さんと私と4人でやるんです.

 高野さんにしても坂田さんにしても根が道路屋さんですから,当時戸塚の湾岸道路があった関係でそっちの方ばかり手伝いに行って河川のほうはさっぱりかえりみませんでした.高野さんにいたっては,河川は全部岡田君がやっているんだから私に言ってきてもだめだということで相談にも乗ってくれませんでした.

 25年,27年ごろ災害がありまして,当時の護岸は豆板護岸が多くて水がでる度に下が洗堀されましてその度に直すといった状況でした.それである時,私,坂田さんに『こんな同じことやっていても金のむだ使いじゃないか.シートパイルを打って下をかためたらいいじゃないか』と言ったのです.当時の予算ではちょっとできませんわね.私もできるとは思っていなかったのですが,そういうことを考えたらどうだろうかと言ったら,坂田さん明快な答を出してくれませんでした.ところが,今はみんなやっていますね.

余盛について大議論

 それから,ここに吉田君がおるんですが,吉田君に関したことでひとつ,27年度に会計検査がきたんです.その時に多摩川の堤防が当時50センチでしたね.余盛したのは,

 吉田 そうです,

 秋本 50センチ余盛りしていることになっているんですけれども,会計検査がきた時には平らになっていたのです,それで検査員が『余盛50センチとあるけどないじゃないか』というわけです.それで『いや,盛ったんですけど,下がっちゃったんです』といったんですけど納得しないのです.それで自分たちで堤防の測量を始めたわけです.

 吉田 今のに関連したことで,ちょうど私が担当した工事なんですが,たまたまそれが請負工事だったわけです.さきほど多賀さんか誰かおっしゃられましたけど,余盛りの解釈の問題ですかね,その時設計の見方が1割見てあるわけなんですが,会計検査院は割高くなくてはならないというのです.ところが,当時の所長坂田さんは『余盛っていうのは余って盛るんだから,1割なくてもいいんだ』という議論なんです.

 秋本 検査官は渡辺というえらい人です.

 吉由 えらい有名な人です.2人で鉛筆のとりっこなんです.

 秋本 それで怒る人ですわ.『もう一度顔を洗って出直してこい!』って.

 吉田 要するに余盛りの解釈の仕方が違うというのがわからないです.所長が説明するのと向こうの受けとり方が違って鉛筆のやり取り.当時災害を10本ぐらいやったわけなんですが,そこだけ集中されたんです.

 秋本 それはあまりにあそこがやせていたからね,

 吉田 それで芝がつかなくてね,現場採取土で30センチかぶせるということだったんですが,その30センチとるだけの表土になるような砂質土が河川敷になくて,結局泥が薄くて芝がつかなかった.それでやっぱり土量が少ないのじゃないかということだったんです.

 秋本 当時,そんなことがありましたので,築堤する時に跡坪計算でいこうということになりました.それで土取場のほうを測量しておきまして,そこの何立米をこっちに持ってきて形はこういうふうにつくりなさいとそういうやり方をやったことがあります.そういうことやかましく言われたものですからね.

 吉田 そうね.

 秋本 そういう積算の方法でやったことがあります.で,その時の検査でやはり根固めの深さを測るんです.それで彼氏は上のほうで箱尺を入れてやっていたわけですが,『何をグズグズしているんだ!』と怒鳴られましてね.どなりつけられたものだから,やっこさんポンと飛び込んでしまった.今だにあなたが飛びこんだ格好が目に浮かびます.

 吉田 瀬回しをして木工沈床を入れたわけですが,完成品は瀬回しをとってしまいますから本流になってしまったわけです.それで木工沈床はないんだろうと言うので,入って行って,『ここが木工沈床のあるところです』と,自分がもぐるわけです.それなら,『上がれ!』ということになったのです.

 大貫 吉田さん,それで会計検査がきたら水に飛びこめというのが流行しましたね.

 秋本 ええ,他の事務所にも流行しちゃったらしいんです.

 吉田 結局何が出たかというと,何も出なかったんです.

 高橋 どうもありがとうございました.では最後に中山さんお願いします.

 中山 各事務所長さんが,もうお話ししてあることだと思うのですが,僕が始めた時には,羽田の0qからマイナス2qぐらいまで埋め立てられて,多摩川の河原,河川がそれだけ長くなっておりました.片側は飛行場,もう一方は工場群をつくるために埋めたてたのです.

 それでその時に,石井さんがよく知っていると思いますが,羽田の漁民の漁業補償がございまして,漁協は漁業補償はなくなったんですけど,餌虫,ゴカイですね,ゴカイを取る権利はあるんです.ですから,ウチであそこを浚渫するということになると,漁業組合がまたありますから補償金をよこせと言われるわけです.私のいた時には,掘削しようとして確か150万くらい払ったと思います.

 丸子橋から上のほうは,アユとかハヤとかウナギとかいうことで漁業権があるのです.やっぱりこちらにも漁業組合がございます.つまり,下流のほうは餌虫の漁業権があり,上流のほうはアユやハヤの漁業権があるのです.だからみお筋を変えると文句を言うわけです.アユが遡上しなくなる.タマゴを産みに入ってこないと言うのです.私がいた時は水質が一番悪い時ですから,理屈からいってアユが上ってくるわけないんですが,そういうことを言うわけです.

 工事としては,稲城のところがいちばん水衝部でしたので根固め工事を大分やりました.木工沈床,牛枠も,いろいろな形でやりました.ただ,稲城より下流は流速がそうないものですから根固めとか必要ないんです.だから仕事はなかったんです.

 ところが,今度は占用関係がうるさくなりました.て,占用は41年ごろからで,それまでは都県がやっていたわけです.それがこんどは全部建設省が受け持つことになって,出張所が窓口になったわけです.下流のほうはいまでもまだ民間に占用させてあるところがございます.ゴルフ場とかですが.

 それから出張所に関しては,これは前に山上さんが言ったと思いますが,事務所は堤防の上にあったんですが,その時はまだ木造でございまして,隣りに東京都の見張り小屋がありました.つまり,東京都も管理していましたから東京都の見張小屋があったわけです.そのうち,ウチは下へ引越そうじゃないかということで42年に引越しましたが,東京都の見張り小屋もいつの間にかなくなってしまいました.

 工事としては,六郷橋の上流に明治製糖があるのですが,そこのところの鋼矢板を打ったわけです.大分鋼矢板に穴があいてしまって上が落下するおそれがあるということで前を補強工事したんです,本当はそれは明治製糖でやるべきだと思うのですが,製糖会社だけではとてもできないということで,ウチでやらざるをえないということになったのではないかと思います.

 高橋 ありがとうございました.これでひととおり終わりましたが,他の方のをお聞きになってこれを言えばよかったというようなことがあれば,ぜひお願いします,.

 大貫 さきほど話に出た鈴木さんという方は礼儀のうるさい方で,また仕事にもうるさい方でした.私が採用されて最初に事務所に行った時に墨をすってくれと言われましてね.水をタップリ入れてすったわけです.すばらしいと思ってすっていたら怒られましてね.『封筒に筆で字を書くんだと言わなかったけど,こんなにしたら時間もむただし,墨もむだじゃないか.仕事を頼まれた時は仕事の内容を聞いてからやるもんだ』ってこっぴどく怒られました.これは本当にきびしいところだなと思ってね.それを覚えています.

今も残る多摩川改修記念碑

 青木弥 この間,この座談会の案内状がきまして,何か調べなくてはいけたいと思いましてね.丸子橋の上に,多摩川改修記念碑が建っていますが,あそこへ行って見てきたのですが,起工が大正7年,竣工が昭和9手,16年間で予算が721万円で,表書きが辰馬鎌蔵さんの書で「多摩川治水記念碑」と書いてあるんです.それであと多摩川下流改修工事の掛の人,内務省技師で比由孝一,中川吉造,真田秀吉,辰馬鎌蔵,金森誠之,樫部保,末松栄,内務省属で和原達治,鈴木富三郎,内務技手で田村勝好,井上孝夫,青島与平さんの名前がありました.

 それから,私は土木のほうを全部やってきたので,味の素のところの金森式レンガを半分にひっかいて,そこへ鉄筋をはめこんだ工事も手伝ったことがあります.

 高橋 どうもありがとうございました.

 その他,何かありますか.

 多賀 事務所で工夫がガソリンカーのラジエターを壊したことであるんですが,その時に『責任をとれ!』と言われて始末書をとられたわけです.それでその後に今度は事務所のほうで失策したので,かたきをとってやれと思いまして.事務所から工事しろといって護岸の設計書がきたんですが,どうもこの単価ではできないんで,それで西府工場へ電話しまして単価を聞きましたら向こうのほうが値がいいんです.稲田工場は川崎と東京を控えているので工事が大変なんです.それでみんなを集めて『これであなた達が仕事するんなら引き受けるけどやれるか』と言うと,誰も受けるという人がいないのです.それで,事務所にこれはこの単価ではできません.西府工場より安い単価ではできませんと公文をつけて返したのです.そしたら,また設計書を送り返してきたのです.それで仕事をしましたが,本局の方で前のは中止ということにしてまた同じ設計がでているがこれはどういうことだということで,やりとりしていました.

 高橋 そうですか.

 石井さんどうぞ,

 石井 多摩川河口付近のことで,先程話し忘れました.

 大正10年ころの話ですが,あの時分はまだ私も船に乗ってハシケをやっていました.あの当時,沖から走ってきまして河口に入るというと,空船で吃水が1尺,35センチくらいのものでしたので,干潮面には入れないんです.今の川崎のフェリーボートの出ている発着所がありますね,あのへんからちょっと入ったところぐらいです.そこを船が入れないんで降りて行ったんですけども,アサリ,ハマグリが砂利上のを歩いているようにいたのです.私はそれをとっては煮たりして食べたものです.

 右岸の河口あたりにはヨシズばりの格納庫がありました.飛行場といってもヨシズばりですから.東京側のほうに学校がありまして,生徒は船で右岸へ渡っていましたが,干潮面だけしか練習できないんです.どのくらい干潮面が出たかというと,あれで700〜800mぐらいあったですね.それをグーッと飛び出していって高さ30mぐらい上がったかね,今考えてみるとね,もうそれより上がらないんです.それでまた帰ってきて.そんなこともありました.

 高橋 青木さん,どうぞ.

 青木利 ききほどから,稲田堤のお話が出なかったようですけど,稲田堤は桜の名所でございまして,多摩川といえば稲田堤,稲田堤といえば多摩川を思い浮べるくらい昔から有名なんです.あそこはもと新田という地名だったようですが,京王帝都の方が稲田堤という名前をつけられたんだそうです.稲田堤には,明治43年から桜が植えられて,出店や踊りの人が出たりして,戦争前から非常に賑やかなところでした.現在はもう桜がほとんど枯れてあとかたもないという現状でございます.

 秋本 あれは,東京の名所でしたね.稲田堤と小金井と.臨時列車が出たくらいですよ.

 高橋 そうですか.吉田さん.どうぞ.

 吉田 さきほどちょっと多賀さんのほうからお話がございました稲田旧堤拡築工事の件なんですけども,私どもが担任している時もやはりなくて,現在の堤防の形は今日通ってきましたら,結局兼用道路になっていますね.兼用道路になっているために川崎市が規定の断面まで上げて,堤防はできているんですよね.できていますけども二ケ瀬の上河原のこのずっと回ったところが,官民境界の石ばりが入っていないと思うんです.それで私どもが資料をみたんですけども,その資料が全然ないのです.それで官民境界を打つのにもおそらく今もう境界図に入っていないのじゃないかと思うんです.

 高橋 どうもありがとうございました.

 いろいろメモその他をご用意いただきましたので,お貸しいただいて事務局の方で整理したいと思います.写真その他も大変恐縮ですが,お差支ない範囲でお貸しいただいて今日のお話を生かしたいと考えておりますのでよろしくお願いします.

 今日は長時間にわたりまして先輩の方々に大変貴重なお話をいただき,ありがとうございました.それでは,座談会は終わりにさせていただきます.

 宇塚 それでは本日はどうも長時間にわたりましてありがとうございました.本日うかがいました結果をもとにしましてさらに我々今やっております河川管理の面等に十分生かしてまいりたいと考えます.どうもありがとうございました.


*15万個
 1個=0.303m×0.303m×0.303m=1尺3



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第2章 旧職員座談会 多摩川の想い出